蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№417 ちいさくても確かに

「正しい知識根拠によると、外界の地は身体を構成している地と同じである。水などの諸元素もまた、すべて身体を構成している元素と同じであると知られるべきである。」 ウパデーシャ・サーハスリーⅠ 9-2

 

 

これまでの私の仕事にも生き方にも、大きな刺激を与え続けてくれた書籍が復刊され、昨日手元に届いた。
復刊なのでまったくの初めてというわけではないのだが、この仕事にかける翻訳者の方のお仕事についてお話も伺っていることだし、これまでに私も大きく変化しているので、まったく初めてのものに触れるつもりで読み進めている。

ヨーガという手法を自らの実践法として取り上げ続けてきた理由は、そのカバーする範囲が広いということと、魂のことについても当然のように含んでいること、そして、師の教えを妄信するべからずという、実践に向かう明快な態度が好ましかったからだと思う。

 

実践から多くの恩恵を受けてきたが、今この瞬間もっとも滋養されていると感じる点は、先日もバクティ・ヨーガについて書いたように、「愛」ということだろうか。

誰か明確な、生きている対象をもたない信仰としての愛は、何年もかけて私自身を滋養し続けてくれた。その過程で、自分という存在に刻みこまれていた小さな傷やひび割れのようなものにこれが沁み込んでくれて、まるで上手な金継ぎで補修をされ、元よりも強くなったような気がするのだ。

 

人格を大きくするためにヨーガを実践するという思いのもとに学びを続けてきたが、多少はその目的も達せられたのかもしれない(そして可能ならば、これからもそうあって欲しい)。

 

ヨーガも他の多くのものと同じように受け取る人によって様々な解釈があるので、単に体操をするという狭義のものと思っている人も多いわけだが、今私自分が感じている満たされたとした心持ちを知ってもらうために、行法も大事だがタイミングも大事で、何かを必死にただやることだけでは辿り着けない場所に向かうものだということをわかって貰えれば、といつも考えている。

 

先日、茶の師匠から急なお声がけを頂き、貴重な茶碗でお茶を頂くことができた。170年ほど前の出雲焼(長岡空斎作)とのことだった。その前日のお稽古では、楽家4代・一入の茶碗で稽古をさせて頂いたのだが、これは330年ほど前のものになる。

ものに宿る命が、人の手を介してこんなにも生き続けることに深い感慨を覚える。この茶碗に私が触れるまでに、多くの人の点前を通じて茶を供し続けた。その光景を見ることはできないが、感じることはできるような気がする。

道具は使われなければいけないと思う。ヨーガには形はないけれども、これもまた使われ続けねばならない。このことがこれより先もずっと続いていくということの前に、自分という存在は小さな砂粒のように思えてくる。小さいけれど、確かにそこにあったものとして、ヨーガというものに含まれていくのだと感じる。