蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№323 マインドフルネスの影

瞑想には色々な効果がある。
https://diamond.jp/articles/-/180610

「なまけものの健康法」で副作用もない、とのこと。まるでいいことばかりのように聞こえる。世界には成長・発達を礼賛する風潮が強くあり、その傾向に後押しされてマインドフルネス業界があるのだろう。

 

ところで、今日の政治の状況について、市民として正当な怒りを感じ、勇気をもってそれを発信している方々が多いことは素晴らしいと思う。誰しもなにがしか自分の意見を持っているはずで、それを発信する自由もあるはずだが、「批判するな」という主張も聴こえてくる。

ヨーガの世界で聖音とされる“AUM”という言葉がある(日本でいう「阿吽」)。
この音を唱えると、恐怖の感情にかかわる脳領域の活動が抑制されることが機能的MRI画像で確認されたそうだ(便利な世の中になったものだ)。
しかし、このAUMの言葉が意味する「すべてを受け容れる」という心を、曲解して使っている人もいるように思う。

今起きていることやそれに対する政府の対応に対して、「AUMの心ですべて受け容れます」と思うことももちろん自由。しかしそれは単なる思考停止ではないか。そのままに受け容れ、意識した上で現実的に行動せよ、とバガヴァットギーターでクリシュナ神も言っているではないか。

瞑想で成長できますよ、というだけでは、どんなものにも内在している影の部分を見過ごすことになるだろう。AUMの言葉に対する一面的な解釈もその一つのように思う。長い伝統のもとに受け継がれてきた行法には、諸刃の剣のような鋭さをもつものもあるから、活用にあたっては留意が必要だということに対して自覚を持って実践している人はどれほどいるだろうか。

 

日本でもマインドフルネスの実践を行っている人は一定数いるはずだ。確かに瞑想には効果がある。ヨーガ療法指導においても、瞑想を行うか否かでは主訴の改善に関して大きな差があると体験的にも感じているが、その指導は慎重に行われなければならない。

ヨーガでは段階を追って実習を行じていくので、身体的な実践抜きに瞑想を行う人はほとんどいないはずだ。また、ラージャ・ヨーガでは瞑想後の言語化を重要視しており、座りっぱなしにさせるような指導はしない。身体を軽視しないこと、行の結果生じた内的なものを言語として外の世界に表現することが、ヨーガ以外の瞑想指導では欠けているように見える。

伝統的な教えによると、ヨーガ実践はまず社会的な関わりにおける自分の心の在り様の意識化から始まり、次に浄化を含む身体の実践、そして呼吸を用いた気の調整へと至る。ここまでの実践を丁寧に行っていくと、いずれ感覚や感情の制御ができるようになっていることに気付く。そこからが本当の瞑想の始まりになるだろう。心身の統御が疎かな状態で、肉体よりもさらに精妙なエネルギーを扱うことはできないと教わって来たし、実体験からも確信している。また、心身の浄化が為されていない状態で精妙なエネルギーに触れると思わぬ障害が起きるともいうが、これも実感している。

日本の禅の実践では、初心者にも初めから厳しい座禅修行を課す形で修行が行われるそうだ。詳細はわからないので恐縮だが、新参の修行者がはケガをしたり体調を崩したりすると読んだ。 座禅の世界の長い経験の中で、そうした修行法のメリットやケアの方法を十分に蓄積しているのだろうと思う。

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)

 

 
この、真剣に禅の修行に向き合う人の中で起きる病を「禅病」といい、日本では白隠禅師が自身の体験からその対処法を教え伝えたため、多くの修行者を救ったと言われている。

では、現代のマインドフルネス実践者はどうか? 
万が一マインドフルネスによって障害が起きた時、適切に救済してくれる人はいるのか?

アメリカ的な考えによると、30年かかる修行でようやく手にすることのできる変化をなにがしかのツールを使って短縮できるそうだ。何らかの計測を用いて知ることのできる一部の指標においては「禅マスターになった!」と言えるのかもしれないが、人間存在の全体性としてはどうなのか。にわか禅マスターには、一片の影も生じないのか?

今、このアメリカ的な瞑想の捉え方の被害ともいえる、現代の禅病が蔓延しているのかもしれないと危惧している。
なぜ修行はゆっくりでなければならないか。個々の差や修行の進み具合が尊重されねばならないか。なぜ身体的な実践を疎かにしてはならないのか。今、改めて考え直す必要がある。

 

調子を崩せば多くの方は病院に行くだろうが、検査しても原因がわからない症状に対する対処法が「とりあえず」の投薬であれば、良かれと思ってなされたその治療が、更に人間に備わっている根源的な力を奪うことが想像できる。西洋医学はスピリチュアル・エマージェンシーに対処する術を持たないだろう。今も、これからも。

 

ここにある肉体を軽視して、精神の修行に手を出す勿れ。
そんな無謀なことをしていては、命がいくつあっても足らない。リアルな心身を尊重することなしに、健全な在りようは養われないはずだ。