蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

No.723 お師匠さま、来た?

いくとせも鏡のなかを歩みゐる我とけふまた目を合はせけり   筒井宏之

 

 

7月24日
秘境にて朝からリアルセッション。協働で指導に当たっているクライエントさんで、もうお一方の先生(Yogaではないご専門)から「ぜひこのタイミングで立位のポーズを」とのご指示があった。なのでトリコナーサナなどいくつかの立位ポーズを含んで1時間ほどのセッションを行った。キツめだったとの感想だが、この秋で実習を始めて1年になる。はじめた頃には立位のポーズなどとてもじゃないが危なくてさせられなかった。随分変化されたので私たちもとてもうれしい。「甲斐があった」という気持ち。
ちなみに主訴は腰痛でらしたが、今、症状はまったくない。

最後に瞑想をしていたら、そういえば今日は慧心先生が何処かでグルプージャをしておられるなと思い、瞑想後の雑談でそのことについてお話していたら涙が出てきてしまった。お師匠さま方が、今ここに降りてきて下さったかのような気持ちになって。

アグニホトラという護摩焚きの原型のような儀式を行い、歴代の師に対して感謝を捧げる。
人から人へと繋がれてきたYoga。誰か一人が欠けても、今こうしてわたしがYogaをすることは叶わなかったかもしれないと思うとなんだかとても有難い。そしてこうして目の前に生徒さんがいてくださるというしあわせ。涙も出ようものではないか。



昨夜は巣鴨の怪しい居酒屋でビールを飲んだ。こんなときだから闇営業というべきだろうが、お客さんはいっぱい!でもナンチャッテな居酒屋だから、食事したなあという感じには残念ながらならなかった(ポテトフライメガ盛りとかね)。なので今日はお昼にちゃんとした定食が食べたくなって、聖地田端最寄り駅にある通称「社食」でかれいの煮付け定食アジフライ付きを頂いた。おなかいっぱい。

あれ?そういえばオリンピックってやってるの?

 

No.722 須賀子というひと

とれたての真珠のやうに子どもらが夏の手前でひかつてゐます   筒井宏之

 

 

 

7月23日
昨夜、長女ぶーちーからSOSが来た。祝日のため二日連続で寮の食堂がお休み、だからごはんを食べさせてくれという。夕方の授業終了後に東急ストアで待ち合わせて、お惣菜とビール(水曜日のネコと銀河高原)を買って部屋へ戻った。

あれこれおしゃべりをしながら飲んで食べ、途中おやつを買いに成城石井に行ってくれて、お約束の杏仁豆腐とぶーちーお気に入りのチーズケーキを仲良く食べた。その後しばらく昼寝?をしてぶーちーは帰っていった。期末でレポートやら何やらでずいぶん忙しそうだったが、頑張っているようでいつもながら感心しきりである。

 

 

昨日は一日ぼんやりゆっくりするつもりだった。先にレポート用紙を購入するために書店に行ったらついふらふら~と岩波現代文庫の棚に吸い寄せられてしまい、そこで寂聴先生の「遠き声」と出会ってしまった。大逆事件で絞首刑となった菅野須賀子の評伝小説である。恋と革命に生きた女性の激しい物語に圧倒され、夜中までかかって読了した。

折り合いの悪い継母の策略で16歳の時にレイプされ、実家から逃げるように17歳で嫁ぐも夫は義母と関係していた。30代という早すぎる晩年に幸徳秋水と愛し合い、毒婦や妖婦と呼ばれた須賀子。大逆事件はあまりにも酷すぎる事件だから気にはなっていたけれど、こんな小説があることは知らなかった。
須賀子に夢中になった1日だった。

No.721 肺と哀しみ

花束をかかえるように猫を抱くいくさではないものの喩えに   筒井宏之

 

 

 

7月22日

今朝、胃の痛みで目が覚めた。その痛みに意識を向けると夢は飛び去っていってしまって、記録できなくなってしまった。

この胃の痛みは今月初めにも経験したもので、自分としては胃が痛いと「感じ」、ものを飲み込むとき、たとえそれが水であっても、喉元で何かの塊がつかえる苦しい感覚がある。体質的に脾(胃や膵臓)が「虚」しやすいとのことなので、ああ、また胃の症状か、と思っていたのにこれが違うらしい。

漢方的世界観から見つめる自分の内臓は、多様な気づきを与えてくれて実に興味深い。
「胃が痛い」という体感はすべて同じものに思えるのに、からだの受け止めようが以前とは違ってきている。これは内臓と感情が関連しているからで、人の性格などうまくすると簡単に変化してしまうから、症状の因となるものも変わっていくということだろう。

 

ちなみに今回の胃の痛みは「肺」からきているとのこと。なので肺のあたりに刺した鍼からは出血し(通常は出血しない)、その痕が青痣になってしまっている。症状が重いところに施された治療はこんな風に痕が残り、自分に対する説得力を持つ。

肺は「悲」に対応している。しょんぼりすると肺が弱るらしい。

最近めっきり腹が立たなくなった。以前は怒ってばっかりだったのに、この1年ほどは哀しくなることが多い。なので鍼治療の時のポイントも変化してきているし、体質だと思っていたものも変わってしまっている。

 

この世に人として生きていて、Yogaが必要でない人はいない、と慧心師が仰る。
ここでの”Yoga”という言葉が意味するところは、いつもと同じく体操(Asana)ではないのでお間違えないようにして欲しい。

生きていれば毎日降り積もっていく印象を、毎日掃除していかなければ過去のことなんて扱えない。無駄に考えず、思考停止の方がマシ。妄想で容易に変化する呼吸を鎮めつつ、心のどぶさらいを続けていくと「自己と自我の区別」がつくようになる。

見るものと見られるものの混同から解放されること。
それが識別智=ヴィヴェーカキャーティ(Vivekakhyāti)ってこと。

 

 

 

विवेकख्यातिरविप्लवा हानोपायः॥२६॥

Vivekakhyātiraviplavā hānopāyaḥ||26||

揺るがない識別知が、除去する手段である。(Yoga Sutra 2-26)

 

 

No.720 うたと詩

静かなる庭に足音響きいて月かもしれぬ 鬼かもしれぬ   筒井宏之

 

 

 

7月21日

思考停止になると詩歌が読みたくなる。
昨年の今頃、非常に印象的な体験をして思考停止になった。そのときから現代短歌にハマってきたが、今年はなんとなく詩の方がしっくりくる感じで谷川俊太郎の詩集を読み返している。

 

現代短歌に興味を持ったのは20代半ば。まずは与謝野晶子の伝記を読み、こんな鮮やかな生き方をした女がいたのかと驚いた。現代社会でも不倫は大騒ぎだが、あの当時あんな時代に若き晶子が恋した鉄管も既婚者だった。しかもその鉄幹を友人と取り合いまでし、堺から東京まで追いかけ飛んで行ってしまった。当時、非常に保守的な世界に生きていた私からすれば「なんてこったい!」と言いたくなる大事件である。このときから晶子の作品のいくつかを好んで愛唱するようになった。

「狂ひの子われに焔(ほのほ)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅」
「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢う人みなうつくしき」



子どものころ物心ついたときから安野光雅の大ファンだった私が、彼が挿絵を描いていた俵万智編著の短歌集を手に取ったのは何よりもまず絵が見たかったから。この本の挿画は版画風になっていて歌の句がそのまま描き込まれていた。それに与謝野晶子の影響で近代以降の短歌に興味を持てていたこともあったから。ちなみに小学生の頃、百人一首伊勢物語にハマったこともあった。見かけによらず文学少女だったのだ。

「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」 伊勢物語


俵万智が編んだこの本に紹介されている歌の多くには相当ハマった。俵万智の選は実に秀逸だ。

「あかあかとほほけて並ぶきつね花死んでしまえばそれっきりだよ」 山﨑方代
「美しき誤算のひとつわれのみが昂りて逢い重ねしことも」 岸上大作
「人間のいのちの奥のはづかしさ滲み来るかもよ君に対へば 」  新井洸

 


そして今年の今、すっかり谷川気分。教科書にも載っている彼の詩、

  人は愛するということ 
  あなたの手のぬくみ 
  いのちということ    「生きる」

もいいが、詩集「手紙」に収められている「あなた」でノックアウトされた。

  あなたは私の好きな人
  死ぬまで私はあなたが好きだろう  
  愛とちがって好きということには
  どんな誓いの言葉も要らないから   「あなた」


今日初めて出会った詩も良かった。谷川俊太郎はきっと、人を愛することに躊躇しない人なんだろう。やっぱりいい。

自分の中で言葉が生まれてこないとき、こうして詩歌に滋養される。これも間違いなく豊かなこと。



   地球には五十億もの人がいるというのに
   そこにあなたがいた ただひとり
   その日その瞬間 私の目の前に

   本当に出会った者には別れはこない
   あなたはまだそこにいる          「あなたはそこに」

 

 

 

 

No.719 みんな無事

手のひらのはんぶんほどを貝にしてあなたの胸へあてる。潮騒   笹井宏之

 

 

 

7月20日
昨日は某所で一泊。楽しいお酒で飲み過ぎて、喉が渇いて早暁目が覚めた。開けっ放しだったカーテンを少しだけ閉めて横になると、夜が明けた瞬間の光を見ることができた。

午後、東京入り。暑い。しかし我が家で過ごすのと違って移動中はどこもかしこもエアコンが効いていて超快適である。この季節、美味しいスイカ(ヒマラヤンピンクソルト添え)を食すためにはとことんまで我慢をするのがいい。一杯のビールのためにトライアスロンをやり抜く人と同じ気合を私もたぶん有している(はずだ)。しかし今日はチェックインしようとした頃から体調がおかしくなった。スイカのために耐える我が家の暑さのような状況ではないのに、冷や汗が噴き出てくる。焦った。

塩。塩が舐めたい、成城石井の黒トリュフ風味のナッツが食べたい、と思い、これはほんとにふらふらしながら買い物に向かう(ちなみに岩塩なら持参している。ネティクリヤ用)。でもこれは熱中症ではなくてきっと反応性低血糖。朝ごはんで普段は頂かないご飯粒をガッツリ食べたからね!

 

 

さて留守宅ではJK剣士が寝坊するというよくある事件が発生していた。いつもなら7時半頃に「おはよー」とLINEして起床を確かめるのだが、今朝はただでさえ飲み過ぎの上、早起きした後二度寝したから注意喚起できず。担任の先生からSMも来てたけど気付かなかった。でもね。JK剣士ももう17歳じゃん?こんなんぜんぜんなんくるないサーよね。


我が家の愛猫あんちゃんの姿が、昨日から見えなくて心配していた。実は人懐こい愛くるしい性格がバレて誘拐され、よそのおうちの子にされちゃったのか、うっかりどこかに挟まって出られなくなったのか、はたまた掃除のついでに私がどこかに閉じ込めたのか… 真相はわからないが先程帰ってきたらしい。JK剣士から画像が送られてきた。思わず目を疑うくらいウェストがくびれている=痩せちゃっている。いったいぜんたいどのような事件に巻き込まれて今日まで(二日未満だが)帰らなかったのか、帰れなかったのか。真実は一つだがあんちゃんしか知らない。今日は大好きなJK剣士の顔の上でゆっくり休んで欲しい。グンナイ、あんちゃん。

 

 

 

 

 

 

No.718 好きな作家 

夏草になつ暮れてゆく前奏はひかりのなかの鷺のはばたき   筒井裕之

 

 

 

7月19日

新幹線は岡山駅を出たところ。今回は一週間の滞在でJK剣士の懇談など大事な所用を済ませた。

旅行に出かけるときにすごく悩むのは、どの本をもって出かけようかということ。
今回もひとしきりそのことに悩み(出る直前まで悩んだ)、ウィリアム・トレヴァーの最新長編を準備していたのだが… 

何人か大好きな作家がいるが、トレヴァーは確実にそのひとり。昨年初めて長編を手にとって心を鷲掴みにされた。そこで当然Amazonで彼の長編を隈なく探したのだが、なにしろ短編の名手と呼ばれる人だけあって長編の作数が少ない。今、入手できる長編はすべて手に入れ我が家に積読されているのだが、悩むべくは「いつ読むか」。

初読の楽しみは生きていてたったの一度きり。再読は何度でもすることになろうが、初めて読んだときの揺さぶられ感はたった一度きりなので積読しながら読みたくても読まない。最初のページをチラ見しながら「いやいやいや、まだ時じゃない!」と思い直して積読に戻すことを繰り返している。

この人が私の夫になる人なのね!
と思ったら、違った。
花婿の友人が出迎えに現れただけだったのだが、この友人が花婿よりもあらゆる点で彼女の理想だったため人生を狂わせてしまった女の物語が初めて読んだトレヴァー作品。読み終えたそばから二度再読した。

ときどきこういう作品に巡り逢える。こういう機会のために読書をしているんだと思う。
歳を前よりも積み重ねて、たくさんの本を読み、好みも明確になってきて気難しくなっているのかもしれないが、それでもときどきはこんなものに出会えるのが嬉しい。そして私は本を読んだ時の内的な感覚は記憶しているが、タイトルすら忘れていることがある。そしてこの小説のタイトルも忘れてしまっているのだが、読了した本が収めてある書棚のどこにあるかはわかっているし、この物語世界に触れたときの体感はいつまでも鮮やかに私の中にちゃんとある。

 

No.717 のびのびあまえて

午後きみはひかりのかごを編んでをり 居眠りをするわれの傍ら   筒井宏之

 

 

 

 

7月17日

JK剣士は学校が休み(本当だったら土曜日も授業)。そして今日は中学生の後輩たちの県大会だった。無観客試合なので応援にはいけない。結果は男子優勝、女子は残念ながら準優勝。5年ぶりのアベック優勝ならず。

昨日をもって、JK剣士の1年先輩にあたるAちゃんが引退したそうだ。中学生の時からずっと大会や遠征で一緒に頑張ってきて、最後の2年は公式戦もほとんどなくあっけない幕引きだった。

たぶんこの2年で「思っていた道」が閉ざされたどころか消え去ってしまって、夢に描いていたり予想していたのとは違う方向へ歩み始める子がいっぱいなんだろうなと思う。かくいうJK剣士も、秋の新人戦を高校生活最初で最後の公式戦として悔いのないように闘って次なる道へ、と計画している。思うようになればいいな。


先日、靈氣マスター・マリコと久々のセッションをして頂いたのだが、予想外に手こずってなかなか完了しなかった。「ちょっと今日終わらないから、じゃあまた明日ね」という訳にはいかないとのことで、所用を済ませてから再開してもらったのだがマスターマリコが目をしょぼしょぼさせておられる。あちら(LA)は夜遅いから眠いのか、と思って「ごめんよう」とお声がけすると、眠いんじゃなくて私のために泣いてくれていたらしい。私のエネルギーをビンビンに感じ取って「しんどい」とも仰っておられた。

Yogaの人間観では、真我(私を生かしめている私自身)の力を自我や過去の記憶が覆い隠しているという。毎日弛みなくYogaを実践するのは、真我の光が輝き出ることを邪魔しているこのゴミのような誤った自己概念を掃除していくためである。淡々と掃除を行っていくと、だんだんひどいゴミが上に浮き上がってくるのだが、今回の私はそのような状態だったようだ。

マスターのおかげさまで、手こずった今回のワークもコンプリートすることができた。そしてなんというか…ふわっとした心持ちである。イメージが豊かに湧く、というのは能力かと思っていたが諸刃の剣だったようだ。妄想を弄ばず、このふわっとした心持ちのまま、周囲の優しい方々に甘やかされてのびのび生きたい。真面目も休み休みにして、のびのび方面にがんばろうっと。