蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№418 ほんものに触れ、愛する

「虚空が、風や他の元素の生起する前には、一切に遍満しているように、私はつねに唯一者であり、一切万有であり、純粋精神のみであり、一切に遍満し、不二である。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ9-3

 

 

先日、レイキマスター・マリコのお声掛けで、宝石のプロフェッショナルである魅力的なマダムと会食させて頂いた。長年、宝石の鑑定をおこなってきて、真贋を見分けるお力がおありの方のお話は、実に興味深かった。

ほんものを見て触れるということはとても大事な教育だけれども、そのほんものに触れる機会があるかどうかが問題となる。

長いこと茶道を学ばせて頂いてきたが、これも先生や施設のお考えで扱う道具が異なってくる。正式な入門のきっかけを作ってくれる優れた場である文化センターは便利だけれども、道具類はあくまでも稽古用であり、お炭の手前すらできないし、茶席内で最も格の高い道具であるお軸すら通年同じものであることが多い。

 

幸いなことに、私はこの点で非常に恵まれた稽古環境に生きてきた。
茶道は実際に物に触れて行うことなので、触らなければわからないことがたくさんある。
もちろん見ることも勉強であって、美術館に足を運んで貴重な品を見ることもするわけだが、ガラス越しに道具を見て、悲哀を感じてしまう。

例えば茶碗であれば、自らのうちにどれほど茶を湛えたいだろう、人の口に触れて味を伝えたいだろうと思う。空っぽの、渇いた肌に寂しいものを感じる。

 

先生のお供で百貨店の美術部に伺えば、実際に触ってごらんなさいとお声をかけて頂くことがある。見るのと、触れるのと、そして呑むために清める(水をかける)のとではまったく違う姿を見せるのだから、ガラス越しに眺めるだけでは何もわからないだろうと思うのだ(もちろん見られないよりもずっといいのはわかっている)。

 

冒頭のマダムのお話で興味深かったのは、左目で鑑定をおこなうか、右目でおこなうかで違いがあるということ。
左目で見れば右脳で判断する。右目で見れば左脳で判断する。
価格という価値判断ならば左脳は役に立ちそうだが、美ということそのものの判断に関してはどうだろうか。

ダイヤモンドのカットはほんとうに美しいのだと伺った。
美しいからこそ高価なのか、高価だから貴重だと認められるのか、そこには大きな違いがある。

茶の世界で大事に扱われる道具のひとつに、「茶杓」というものがある。
お茶を掬って茶碗に移すための道具で、主に竹が素材である。

生まれて初めての茶会に向かうタクシーの中で、運転手さんが利休さまの茶杓に高価な値が付いたニュースの話をして、バカバカしいというようなことを言った。その頃の私はまるでなにもわかっていなくて、だからこそそんな話を聴く羽目になったのだろう。

この道具に意味を見出さない人からすれば茶杓は単に竹の切れ端であり、利休は大昔に死んだ人に過ぎない。
でも私たちからすると、茶杓はその扱いに細心の注意を傾け、銘をつけて大事にするものだし、歴代の宗匠方は常に生きておられると思い、語るのだ。それがどんなに豊かなことか、わからないのはもったいないこと思うからこそこの世界にいる。

今の自分ならば、そんな話はそもそもさせないエネルギーを発して茶会に向かう。
これは茶に限った話ではなく、自分が大事だと思うことを世の中がどんなふうに評価しようと、まったく気になどしなければ良い。ただしそのものがより大きな愛や価値に根差していて、誰も傷つけないことは当たり前のこととして。

ジャッジするのを止めて、自分が美しいと、そして愛すると思うものに心を寄せることを大事にして生きよう。