蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№922 宗教性といううつわ

以下のお話は、私が直接見聞きした事件に基づいていますが、実際の人物が特定されないようモザイクがかけてあります。すでにこのネタについてお聞き及びの方は「ははあ、あのことだな」と思いながらお楽しみください。

 


さて、Yogaってなんなん?と問われれば、健全な宗教性の発達を促すための洗練された体系であると申し上げたいと思います。これが現時点での私の理解です。

 

この歴史ある洗練されたアプローチのなかには、高い目標に至るための寄り道、回り道、そしてケモノ道までもがふんだんにあり、好きな薫りに吸い寄せられてついふらふら〜と蹊に迷い込んでしまっても、そこもまた芳しい地であるのです。そしてそこにハマって出て来れなくなったりするのですが、そこもまたYogaという豊かな流れの内にある場所なのです。そういう豊かさを内包する伝統的Yogaというものを、ご存知の通り私は深く愛しています。

 

Yogaを学ぶなかで最も大切なのは、人間本来の自己概念の再構築であり、それは「Yogaと共にあること」を健全な大人の自我が改めて選択することです。

 

これを為すために、自分が知らない間に身につけた色付きレンズのメガネの存在に気づいたり、そもそも自分ってなんやねんということを、「今ここ」で改めて考え直さねばなりません。

 

そこで必要になるのが、宗教的リテラシーであると思っています。

 

宗教と聞いただけで嫌悪感を露わにしたり忌避したりしていては、このリテラシーは身につきません。

 

ちなみに私の両親は若い頃のトラウマで「宗教」と名のつくものがすべて嫌いで、これは考え抜いてそうなったわけでなく、自らの体験を稚拙にも「宗教」というものに勝手に結びつけてしまい、すべてをそこに投影してしまって自己や世界を理解する機会を喪失したんだなと思っています。

 

赤子ごと川に流すと言いますが、我が両親の場合、イヤすぎて赤子の入ったタライごと川に放り投げたために、赤子はタライの中に収まったままどんぶらこっこと時の流れを下りまして、下流で子孫(文字通り私と孫)が受け取って、それぞれの形で宗教と真摯に向き合うという、まんまと絶対者ブラフマンの思う壺にハマった展開になっています。絶対者のお仕事は、常に緻密にして完璧であります。

 

 

さて、成人したばかりの若い方が、自動車学校に向かうためにバスを待っておりますと、カタコトの日本語を駆使して話しかけてきた人がいました。3人対ひとりです。そして「私たちの教会に聖書のお話を聞きにこられませんか、ランチも出ますよ」と言われたそうです。

 

そうです。これはまさに宗教の勧誘です。

 

しかしこの子は素直な性格で、自身の経験から日本で生活している外国人の方に優しいという習性を持っています。先日も、時々すれ違っていたバングラデシュの方と話をし、ハイタッチをしたと語っていました。これくらいなら素敵な国際交流ですね。

 

かくかくしかじかで教会(らしきもの)に誘われました、と相談を受けた時、私は「まあ行ってみれば」と返しました。

 

普通ここでキレるか止めるかだろ、という反応を複数の方から頂きましたが、なにぶんにも宗教というものは相当に大きな「幅」がありますし、自らの中に健全な柱を立てるには経験をせねばなりません。残念ながら、大人が言って聞かせて済むようなものではないのです。しかもそれって逆効果で、やったらアカンやつやねん。

 

後日、「ランチに行きました。その場で入信しました。」というメールが届き、「マジかよ」と流石にビビりました。そしてこの時点で「これはクロやな」と判断しまして、新しい身体実践により疲労しきった脳を緩めるためにワインを飲みながら、ここで待ってるからおいで、と声をかけました。

 

合流して店を変え、チョコレートパフェを食べながら(ほんとに緻密な身体実践って疲れるんですよ、疲れたら食べたくなるんですよ)詳細を聞きますと、クロどころか真っ黒です。そして入信したての人は当然ながら狂っていますので、人の言うことを素直に聴いたり致しません。まあそらそうさ、だから入信するんよ。

 

ですのでカフェを出たその足で、先ほどまで彼女がいたという「教会」なる建物に行ってみました。ビルの1室で、郵便受けに名前すら書いていません。匂います。そこで待っとけと言いつけて私一人でエレベーターに乗り込みました。

 

その時彼女はようやく「なんかヤバイ」と気付いたらしく、「行ってなにするのー!」とテンパっていましたが、時、既に遅しであります。

 

扉が開くともうそこは「教会」。誰かおったらなんぞ言うてやろと思っていましたが誰もいなかったので、正式名称を確認して何事もなく戻りました。

 

調べましたが、やっぱり真っ黒でしたね。複数の私大からも「ヤバイから注意しろ」と勧告を出されていました。

 

そして私は彼女に何を勧めたかと申しますと、昔から外国人が居住しており、様々な宗教施設が揃っているこの地の利を生かして、歴史ある宗教の礼拝に全部行ってみなさいということでした。そこで宗教や信仰について自分でしっかり感じ、考えてみろと。

 

怪しい宗教は若者の心の弱い部分に付け込む術を持っています。そんなんCIAも研究しまくって、知ろうと思ったらみんな知れる技術ですからね。彼女も彼女の弱い部分を突かれました。こういう体験を通じて、自らの無知、そして無智について考え抜かねばなりません。考え抜いた上で、自分が何を信じるのかを自らの意思で決定しなければなりません。

 

 

翌日、彼女はカトリックの日曜礼拝、外国人向け英語バージョンに参列してみたそうです。ステンドグラスがある教会を選んだと言っていました。立派な教会ですので、観光客までもたくさん訪れているなかで、生まれて初めて「祝福」も受けてみたそうです。きっとくすぐったいような経験だったことでしょう。夏の陽差しがステンドグラス越しに降り注ぐ祈りの家で、言葉にできないものを感じたことでしょう。

 

自らの信仰を問われる瞬間が、生きていれば誰にも訪れると思うのです。

 

そのとき、神っぽいことをわかりやすく語ってくれているように見える誰かについていくのではなく、我が身のうちに揺るぎない生命として、常に既に宿る神性の小さな声を聴きとれるように、そのために自我の雑音を鎮められるように、淡々とした実践が必要であることに気づきます。

 

我が内にあるものを見つめる努力を通じて、生命の持つ偉大で神秘的な力について自ら拓かれることなく、信仰も宗教も理解できないでしょう。生命という揺るぎない信仰の前に、怖いものなどないはずです。私はそう思います。

 

ちなみにその後、ヤバイ宗教の方々は彼女の自宅を訪れたそうですが、その対処法についても伝授しておきました。重ねて何かあれば、私がいつでも出張って対処します。

 

自分を信じることは難しいことで、私も自分に与えられたものをまだマダラにしか信じきれていないと感じます。どんな仕事をとか、どれくらいの報酬をということではなく、生命そのものを十全に理解して、与えられた力があるのならばただそれを発揮して生きたいと思いますが、まだまだ道は半ばです。

 

若い方の経験から私も感じるところがありました。豊かな経験をしている彼女を羨ましいと感じます。

 

まあでも近くに私みたいなのがいなかったら、ちょっとヤバかったかもですね。それもまた彼女自身の資産なのでしょう。

 

 

 


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