蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№338 自分を観る洞察力  

 

「自分の恐怖や痛みを自覚し、同時に、自分の奥深くにある”何か“と結びつくことによって、安定と力を得る方法を学ばなければなりません。この”何か“とは、”洞察力“のことです。」
                                J・カバットジン

 

からだを通じて自分というものに取り組もうとするとき、なにかしらの苦痛がきっかけになることが多い。

そこでありがちな、かつ大きな間違いとは、あなたの中になにか悪いものがあって、それを取り去らねばならないという考えである。

 

あなたのなかにあるものがどのようなものであれ、それが無くなりさえすればすべてOKなどという単純なものではないし、自分のなかに存在を許されない何かがあるという発想はとても破滅的だ。

まず、すべてをありのままに見よ、と教えられた。
自分の痛みや、つらい過去の記憶を想起させると心がざわめき、悲鳴を上げるから、それをそのままに見てごらんと。

しかしあなたは(そしてわたしも)ほんとうは心以上の存在だから、目を覆っていた手を外して「それ」をしっかり見ても、決して死んだりはしない。

むしろ「見てみよう」と思うことで、痛みや心の苦しみが、本当はなにをあなたに伝えたかったのかを理解できるようになる。

見ないまま放っておくと、その根っこにある「何か」は影に隠れて悪さをするだろう。
影となった「何か」は、あなたの人間関係の裏側に入りこんでいくかもしれない。
からだのどこかで蠢いて、嫌な感覚をつくり出すかもしれない。

自分の外側にあるものを理解するには、自分の感覚を研ぎ澄ませておくことが大事だ。
でもその時に、自分の内側に戦う相手があって、戦闘状態だったらいったいどうなるだろう。考えるだけで大変だ。

まずこの内戦状態を解消すること。
今、痛みがあるなら「なぜ痛むのですか」と対話してみることもいい。
そういうやり方がバカバカしいと思うなら、MBSR(マインドフルネスストレス低減法)で使われる“レーズンを使った瞑想”を試してみてはどうか。

これは、「宇宙人が初めて地球の食べ物を口にしてみた状況」をロールプレイするというもの。

レーズンを3粒準備し、順に口に入れて、「自分の感覚を見る自分」を観察していくのだが、リトリートの時にはいっぺんに三粒食べてしまった人がいた… カバットジン氏がちょっと呆れていたのが面白かった。

さて、レーズンを口に入れたあなたは宇宙人なので、これがなにか知らないはず。
でも。

 

まったく知らない、という地平に立って何かを体験することが、たぶんできない。
「これはレーズンだな」
「ブドウだよね」
「甘いよね」
といった先入観から、私たちは物事を経験している

先入観を取り払い、痛みや苦しみという感覚と向き合っていくと、なにかこれまでと違う智慧が自分のなかに生まれてくるのがわかる。
これは、本を読んだり、誰かになにかを教えてもらうことで見つけられるものとはまったく違う、あなた独自の智慧だ。

 

この智慧を生むために、症状や病が生じていると考えてみて欲しい。
あなたのなかに、直さねばならない悪いところなど、本来無いのだから。

 

№337 感情の抑圧

「抑圧の力は私たちすべての中に働いている。
私たちはみな、程度の差こそあれ自分を否定したり、裏切ったりするものだ。」

 

からだから始める、というとどうしても筋肉や骨(関節)のことを想像してしまう人が多い。これは、現代社会でヨーガがフィットネス的に捉えられているからだろうが、それ以上に、からだを物質として考えしまう癖がしみついているからでもあると思われる。

からだは感情が宿るところである。
記憶は身体感覚と共に残るものなので、薫り(匂い)や情景、皮膚感覚で記憶が引き起こされることは誰しも経験があると思う。

からだから始めるということは、感情をも癒すことが視野に入っているということでもある。

こころとからだでは、絶対的にこころの力が強い。
目に見えないものは、見えるものより精妙であるがゆえに強大であると言われる。
その強大な力の前には、からだは容易く屈服してしまうからこそ、こころとそのあらわれである感情を扱えるようにしていくことは、人が健やかに生きる上でどうしても必要である。

 

ストレス性の疾患も、その始まりには強い感情を伴うこころの動きがあったはずだ。
では、感情を感じることは悪いことなのか?
そうではなく、感情を抑圧してしまうから、肉体にその精妙な力が潜ってしまうのだろう。

漢方では内臓と感情を関連付けている(ヨーガではそこまで緻密なことは言わないので、非常に感心している)。
例えば、肝臓は怒りと関連があるという。
脾(膵臓のこと)はくよくよと思い悩むこと、肺は悲しむこと、そして腎は驚き恐れることで傷む。

現代の社会では、ネガティブな感情を持つことが悪いことのように思われている。
自覚しているものでも症状が出るのに(例えば、しょんぼりすることがあると風邪を引きやすくなる、など)、抑圧されたらどうなるか。
押さえつけられて隠された感情は、肉体などたやすく壊してしまう力を持っていることを忘れないで欲しい。

ヨーガは体操じゃないよ!と口を酸っぱくして言い続けているわけだが、ヨーガでは「二極の対立の克服」という大きな目標がある。
体操はやっているが、この点が伴っていない人が多いように見受けられ、非常に残念である。

「苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いの準備をせよ。」
バガヴァット・ギーター第2章38節にある有名なこの言葉は、好戦的な志向を示すと誤解されることもあるそうだが、この言葉をかけられているアルジュナは武人なので、目の前に現れた彼にとっての義務である戦いから逃れることのないようにと教え諭されている。

この世の多くのものが対立を伴ってあらわれることに、不思議さを感じたことはないか、とウィルバーも書いていたが、感情も同じである。「負」に分類される感情を抑圧してしまったら、この世はとても平板な世界になってしまい、喜びは色あせて見えるに違いない。

健康という視点から見ても、人生をより良く生きる上においても、二極の片方を拒絶したり抑圧したりしないことが大事だ。

その練習をからだで行っていくからこそ、だんだん上手にできるようになるということは、実践すれば必ず至ることができる結論である。
ぜひこの体験を、多くの人に味わってほしい。

 

身体が「ノー」と言うとき: 抑圧された感情の代価
 

 

№336 からだはなにを言っているか?

多くの人は「自動操縦」で生きている。

エマージェンシーが起こったら、すぐに自分で操縦桿を握り直してオートパイロットを解除し、状況に対処しなければならないのだがそれができない。

 

自動操縦状態に陥ると、私たちは非常に大事なものを見失ったり、無視したりして、それを制御できなくなってしまう。

この大事なものというのが、自分のからだのこと。

 

ほんとうは、からだはいつもサインを発して色んなことを教えてくれているから、そのサインを受け取って対応してあげればよいのだが、自動操縦状態だとこのサインを聴きとるのが難しい。

多くの人は、「自分のからだがどう感じているか」についてほとんど意識していない。
その結果、からだが、環境や自分の行動や、思い込み、感情などにどれだけ影響をうけているのかがわからなくなっている。

そしてからだが悲鳴を上げた時、その悲鳴を聞かずに押し殺そうとしてしまう。

からだが冷えていたり、むくんだり、肩や腰が痛いという段階で、あたかも命にかかわることのように重大に受け止めて、からだの立場に立って対策してあげていれば、それがもっと奥にまで影響を与えて病気が発症したりすることは、かなりの割合で避けられるはずだ。

ほんらいからだとこころはひとつのものとして、私の「生きる」という活動を支えてくれている。

こころの動きを受け容れ、鎮める方法を学び、からだの声に耳を傾けて、日々生じる小さな変動を乗りこなしていく工夫を学ぶことで、わたしたちはそれぞれの心身とひとつになることができる。

自分のこころやからだとの繋がりを失い、自分を見失っている人が多いなかで、自分を確かに感じ、乗りこなして生きていると、人のことがよく見え、理解できるようになると言われている。

ヨーガの体操を行うとき、慣れていないひとは「やることがたくさんあり過ぎて忙しい」と言う。
いつも自動操縦で物事を行う癖が付いてしまっているからだと思う。

「ながら運動でもいいですか?」と尋ねられたら、ごく初心者の人になら「なにもやらないよりも、ながら運動の方がいいですよ」と申し上げるが、なにか目的があってヨーガに取り組む場合は「いけません」と伝える。

テレビを見ながら体操を行う時、あなたは何を見るだろう?もちろんテレビだ。
では、あなたはいったい何時、自分という最も大事なものを見つめる時間を持つのか。

ポーズを取ってみる。なんでもいい。
胡坐で座ることも「安楽座」というポーズだ。
ただ形を真似るだけではなく、外から見る自分を想像して完璧さを要求するのでもなく、目を閉じて自分の内側を見ると、

息は止まっているかもしれない。
歯を食いしばっているかもしれない。
眉間に深いしわが刻まれているかもしれない。

そして、ポーズの最中に肉体に生じていることは、普段の生活でも起きていること。
ポーズを取る、ということは即ち、あなたのからだやこころが普段無意識にどんな反応をしているかを知ること。

肩凝りの人は、歯を食いしばっている人が多い。
なので、ひどい場合は顎関節症になる。噛みしめていることに意識的になることができれば、この病気はすぐにでも治るだろう。

食いしばっていれば、頭皮まで固くなる。血流が悪くなる。
自分の頭を触って、頭皮が柔らかく動くか確かめて欲しい。

こういった小さなことを一つひとつ見ていくことで、あなたは自分自身とほんとうに仲良くなれる。

周囲をよく見て、安全に、もちろんマニュアル運転で毎日を過ごして欲しい。
これが、心身一如への道。


№335 心ここに在らず、から始める

 

以前、10カ月間のワークを行った時、よく言われたのが「正気に戻れ」ということだった。

多くの人は「自分というもの」と心の働きが同化してしまっている。
折々に生じてくる印象や、自分にまつわる考え、過去の記憶などが混然となって次から次に意識に上ってくることが、当たり前のことと思っている。

瞑想やその要素を含んだ実践を一定期間継続した人だけが理解できる、心が鎮まった状態というのがある。

大昔から心というのは厄介なものだと思われてきたらしく、心の働きを止められないのかなと考えてきた人たちがいる。この、心の働きを止める、できれば滅することを目指してきた人たちのことをヨーガ行者という。

 

当然私は行者さんの足元にも及ばないが、行者さん方がさまざまなアプローチ法を伝えてくれたおかげで、私もなんとか心の働きを制御できるようになった。

当然私も体操からはじめたわけだが、はやい段階で運良くラージャ・ヨーガの指導者にたどりついたため、「私という思い(自我意識=アハンカーラ)」や「過去の記憶」を自分にとって楽なものに捉えなおすことができた。

こんな風に書くと、私はあまり身体的なヨーガに興味がないのではと思うひともいるかもしれないが、制御できるものを放置しておくとそこに苦悩が生じるので、食や肉体にも十分に注意を払っている。

 

肉体から入る道が無かったら、挫折していたかもしれない。
しかし無事今に至っている。
ヨーガにおける主要な道は4つと言われるが、ひとそれぞれ得意分野が違うということを先人たちはよくわかっていたのだと思う。

心の働きを制御できたらどんなことが起こるかというと、あたまのなかのおしゃべりが止まる

こういう状態を、平素から何の訓練もなく保てているひとはいるのだろうか。
私は、ヨーガと茶道の訓練を通して、ようやくこの状態に至れた。

 

頭のなかのおしゃべりは、今ではデフォルトモード・ネットワークとして知られている。
雑念
これが浮かんでくる状態とはどういうものなのかを、脳画像などで説明してくれるので便利な時代になったなと思う。

とは言え、自分の脳の中を三カ月おきに確認するようなことは、恵まれた研究者さんしかできないことだと思うので、やはり自分で感じていくのが庶民のやり方だ。

感じる、ということが人は下手くそになっているので、ヨーガを勉強していただくときにはまずここから始める。
多くのひとが「自分を見失った状態」にあるからだ。

我に返って、観る者たる自分の立ち位置を固めていく。

自分をわかっていない、ということを理解するところから、始めなくてはならない。

 

№334 苦しい人のために怒る

鳥取県は今日から学校が再開された。
我が家の剣士は今春から高校に進み、尊敬する先輩たちと共にインハイを目指して頑張っていたのだが、今年の試合はすべて中止となったそうだ。

部活動も再開したとはいえ、某県の警察官の方々が強化練習でクラスター発生したということがあったため、剣道は目を付けられているらしい。当分、防具も付けず基礎練習に励むという。
先輩方の無念如何ばかりか想像することしかできないが、全身から気力が抜け落ちるような思いでおられることと思う。言葉もない。


連休中はオンラインで仕事をしながら、YouTube動画で政治・経済について勉強してみた。難しいことはわからないので、twitterを見て疑問に思ったことを調べ、動画に至る、ということを繰り返している。

そんな動画で出会った藤井聡先生(京都大学大学院教授)と中野剛志先生の、熱い怒りに私は猛烈に感動した。

私事だが、かつて心を病んで苦しんだことがある。その経験が私をヨーガに向かわせた。
癌患者さんとは異なり、心を病んで命が危うくなることは基本的に(肉体的に、というべきか)ないわけだが、ただ、容易に死にたくなってしまう。
ほんとうに具合が悪い時はあらゆることに意欲がわかず無理なのだが、ちょっと元気になりかけた時にその元気の方向性が間違ってしまうそうだ。これは救急救命士の先輩に伺った話なのだが、実体感としてもそんな感じだった(幸いなことに実行には至らなかった)。

藤井先生と中野先生は、困った人を助ける力や役割を持つ人に対して「みんなを助けんかい!!」ということで、「激おこ」して下さっている。この点に私は魂を奪われたのであった。

この二人の、他者に対する強い共感と、その思いを明確に表明なさっておられることがとても素晴らしいと思う(きっとたくさん批判も受けておられるのであろう)。

人の成長には二つの道がある、とウィルバーが言っている。
一つ目はグローイング、これは通常言われる「成長」の道。
二つ目はウェイキング、こちらは「目覚め」の道である。
ヨーガはこの二つ目の道のための道具だと私は考えているのだが、ヨーガ業界の主流は成長のために体という道具を活用しませんか、と言っているように聞こえる。心身二元論に陥り、本来分かつことのできないものがバラバラに語られているように思う。

目覚めの道では、人は徹底的に自分自身に向かい合うことによって、自分の中心に人と一体になれる場所があることに気付く。

私の心臓の中にある生命原理は、あなたの心臓の中にある生命原理と全く同じ力(エネルギー)なのだ。だから、この道を歩んでいくと、人のことを無視できなくなると思う。現実生活では全く接点のない人に対しても、慈悲の心で思いやることができるようになるはずだし、そのためにヨーガの修行がある。

かつてウクライナにボランティアに行ったとき、もちろん手弁当なので何十万もの旅費を負担したが、それをもったいないと言うんだったらヨーガをやっている甲斐はないのだと思った。ヨーガ以前の自分は心が狭かったので、私の心は行によって育てられた思う。

そして今、この状況の中で、金銭的な困難を抱えて死にたいと思っている人が間違いなくいる。声を大にして言いたい。金のことなんかで死んではいけない。絶対にダメだ。
ここで私が叫んでもあまり多くの人に届かないので、せめてもの代わりに私は藤井先生や中野先生のツイートに反応することで、自分の意思を示すことにしている。

№333 免疫力を上げたい

「疫」という字は、悪性の流行病を意味するそうだ。
免疫力とは文字通り「疫を免れる力」、からだを守る防衛機能。

免疫システムは、基本的に2つの仕組みから成り立つ。
1つ目が「自然免疫」、2つ目が「獲得免疫」。
後者は高度な生命体のみに備わったシステムで、特定の病気に対して抗体を持つのもこのシステムのお蔭である。

数日前、長女がお世話になる予定の学生寮からお便りが届いた。
東京の現状と、若い人が感染症に罹患した場合の症状について説明があり、寮母さんたちは医療従事者ではないので、罹患したとしても十分にお世話ができないかもしれないということや、寮内で療養中に病状が悪化しても救急車もすぐに来てくれないかもしれないということが書いてあった。前期はすべてオンライン授業になったので、当分の間入寮の予定はないのだが、現在の寮の置かれている状況の厳しさがひしひしと伝わってくるお便りだった。

そして、そのお便りに「最後はひとりひとりの免疫しかない」という旨があったのだが、これまたマスク二枚と同じような“竹やり”感を感じて、私は腰が抜けそうになった… 
だって皆さん。 免疫力の上げ方とかご存知ですか?! 

ヨーガ教師として、身体的な面から生徒さんにアプローチする際に、お一人お一人の免疫力を上げることができるようにと必死に考えてきたが、それは決して単純な話では無いと思っている。

様々な角度からあらゆる手を打つ。しかし一つひとつは実に地味な取り組みであり、「役にたってる!」というリアルで劇的な感動はないものを、諦めずに淡々と積み上げていってようやく上がるもの、それが免疫力であると思っている。

簡単に免疫力が上がるんなら、誰も悩まないんだぞ!

自分自身もかつて原因不明の体調不良で苦しみ、検査ではなにごとも無いため精神的な問題とされ、しかしその苦痛から逃れ出る術は教えられず、溺れる中で藁にも縋るつもりで手を出したのがヨーガだったわけで、「いったいどうしたらほんとうに楽になれるのか」を考え抜いてようやく今ここに辿り着いた、という感覚なのだ。
だから、単に体操をするという側面からヨーガを見られると大変悔しい。

今、この場面において、多くの人にとって免疫を活性させる特効薬があるとすれば、「先々の不安を減らす」ことに尽きる。

ヨーガ教師としては個々の方の真の健康に向き合いつつ、私たちが生きる場であるこの国というものの舵取りにも真っ当な怒りを向けていきたい。
その悩みは、実は個人的なものではない可能性があるからだ。

とは言え、黙って弱るのは悔しい。個人としても最大限抵抗したい。
免疫力を上げるために最も大事なこと、それは「クヨクヨ考えない」ということ。

その為に瞑想(マインドフルネス)は役に立つだろう。
しかし、ただ座るだけで思考が鎮まるわけではないので、呼吸を整えると良い。

呼吸を整えるには、身体を調えるのが手っ取り早い。
全身を動かしつつ、呼吸を調え、心を調え、雑念が浮かびにくい状態を作っていく。

呼吸を整えるための動きにはちょっとしたコツがある。
仰向けになって練習するとやりやすい。手をお腹に添えて、呼吸と共にお腹を動かしてみて欲しい。細かい着意はたくさんあるが、まずはこれでかなり差が出る。

最後にもう一つ。
皆さん無意識に息を止めていることがあるので、吐くときにハミングしてみて下さい。
そのまま「ブラーマリー」という調気法になります。

№332 形ではなく

「実習はどれくらいやったらいいですか?」というご質問をお受けすることが多い。
今より1分でも多かったら、まずはそれで良いと思う。1か0なら1の方が良い。

何分、何回という指標は確かに分かりやすいのだが、内的感覚を感じることができなくなっているから、数的指標でしか進歩を測れないという問題点を内包しているかもしれない。

毎日3分座るといいですよ、という提言は、1か0かということでなら十分だろうが、では3分かけてどのような内的状態に達し得たのかを、自分が感じることがとても大事なので、何よりも「感じる」ことを大切にして欲しいと思う。

呼吸法に取り組む方法として、吸うことと吐くことを1:2で行うことがある。マントラを用いて「ソーハム」と唱えながら行うこともあるが、数でカウントするよりもこちらの方が自然に感じるし、そのまま自然な呼吸を数える数息観がいいかもしれない。4吸って、15止めて、8で吐く、と聞くとなんだか息苦しくなってくるような気がするのは、私だけだろうか。

心身が別々のものであるかのように扱われていることに、私はとても危機感を感じる。
心とからだが別々ならまだいいのかもしれず、私自身とその肉体が別々の存在のような感覚の人が実は多いのではないか。
自分の肉体をどう扱ったらいいのかがわからないのは、内声を聴く習慣を持たず、内的な感覚を感じ取る練習をする機会を与えられてこなかったせいだろう。

まず「自分はどうしたいか」を、選択する練習を知稲佐ことからやってみたらどうですかと申し上げている。
日常生活の中で「どうする?」とか「どっちがいい?」と聞かれる瞬間は案外多いのではないだろうか。絶対にこれでないと嫌です!などと言って人と喧嘩するような人は、そもそもヨガのようなアプローチはまだるっこしいと思ってやって来られないので、謙虚に、人を優先して「いえ、どちらでもけっこうです」とか「お好きな方で」と言い続けてきた方に対する提案である。

右の丸いチョコレートと、左の四角いチョコレートのどちらがいいですか?という単純な問いに対しても、自分という存在が、今、何を求めているのかを知る機会にして頂き、「今この瞬間に、私の全存在が右側の丸いチョコレートを欲している!(たぶん)」と覚悟を決めて選ぶという実験をしてみて頂きたい。数日後に、何かしらの心的な変化が起こっているかもしれない。

形や回数にこだわらない心を持ちながら、ある形(ポーズ)を取る中で、またはある呼吸を繰り返す中で、自分自身がこれまで感じて来なかった新しい感覚に気付くことができるかについて、ヒントを与え続けられるような教師でいたい。
そして、ヨガでなくても、様々な活動のなかで、心身も、天と自分自身も統合されていると思えるようになってほしい。
教師として単に手法を教えることに堕してしまうようなことがあれば、私は潔くこの業界を去ろうと思う。