蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№911 下山

3ヶ月間、山間の町に修行に行っていました。

そこで立位瞑想と歩行瞑想を延々と行い、目を閉じて坐るのとは違う感覚を得て帰ってきました。

 

また、「三昧ってこういうことなんやろなあ」という感触をつかむことができました。


外界の環境要因に関りなく、自分の中に至福・歓喜を保つ。それを体感として明確に自覚し、維持し続ける。「歓喜の状態に戻ろう」と自ら思いさえすれば、すぐにその心的、かつ身体的状態を再現できること。これがYogaが本来目指す境地なのではないかと、そういう気づきを得て帰ってきました。

 

 

Yogaでは幸福に定義があります。

曰く、理由があってはならない。

 

なにかいいことがあったとか、誰かが優しくしてくれたとか、私を愛してくれたからなどという要因・原因によらず、ただしあわせ。そしてそれは理由がないがゆえに、しあわせがどういったもので、それは自分のどういう状態なのかを理解したら、いつでも・どこでも・誰とでもしあわせでいられる再現可能なものなのです。

 

が、まあ結構難しいよね。
特に「誰とでも」というところは非常に難しい。

 

修行の3ヶ月間も「なんでこの人こんなやねん!」「なんでそんなこと言うねん?!」という未熟な心根が噴出することが度々あり、そんなことを思うたびに「いかんいかん!!問題はおまえ(私)やろ!」と引き戻し、慧心師がいつもいっておられた言葉や愛読書のなかの文章を思い返しては、

 

こういう事ごとを目にし、耳にする自分の程度って、いったいどれくらい?

 

と、いうことを繰り返し考えていました。

 

結局見るもの・感じるもの・経験するものの在りようや質を決めているのは、世界を知覚する私自身なんやもんなあ。ということは、自分の感じようと、その感覚を決めている内的なものの質に、とにかくなんとしても責任を持っていないといけない。それに尽きる。

 

とまあ、実に深い示唆を与えてくれた山での体験でした。

 

 

で、今、新幹線に乗っています。

 

大石先生と昨年9月から開講した講座(全人的セラピスト講座・初級)が2月で無事修了したので、皆様に修了証をお渡しに浜松に向かっているのです。オンラインでしかお目にかかったことのない皆様に、本日初めてお目見えします。さあ、どんな感じになるでしょうか?

 

下山後すぐに浜松に行くことが決まって、この日を楽しみに山での時間を過ごしました。

 

いつも出張準備が超絶ギリギリで、我が家の剣士にほとほと呆れられている私ですが、本日たまたま剣士が海外に行って不在のため、今日はひとりでしっかりせんといかん!と気合いを入れて準備を調えました。

 

勇んで駅に向かいましたら、お土産物屋さんが開いてないのです。「あれー、なんでだろ?フロインドリーブのクッキーが入手できんやないか〜」と思い、しょうがないので一本早い列車に乗って乗り継ぎの駅に着いた時気付いた。

 

1時間、フライングしとるやんか。

 

7:16の列車に乗るはずだったのに、一つ先の乗り継ぎ駅に6時に立っている私。

6:45に家を出るつもりが、5:45に出てる私。

そら開いてないわ、店なんてどこも。早すぎだわ。

 

やれやれ。まあ意気込みはわかったってことで。



ということで無事下山しましたので、これからまたこのハスドロBlogもぼちぼち更新していきます。お付き合い頂ければ嬉しいです。