蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№334 苦しい人のために怒る

鳥取県は今日から学校が再開された。
我が家の剣士は今春から高校に進み、尊敬する先輩たちと共にインハイを目指して頑張っていたのだが、今年の試合はすべて中止となったそうだ。

部活動も再開したとはいえ、某県の警察官の方々が強化練習でクラスター発生したということがあったため、剣道は目を付けられているらしい。当分、防具も付けず基礎練習に励むという。
先輩方の無念如何ばかりか想像することしかできないが、全身から気力が抜け落ちるような思いでおられることと思う。言葉もない。


連休中はオンラインで仕事をしながら、YouTube動画で政治・経済について勉強してみた。難しいことはわからないので、twitterを見て疑問に思ったことを調べ、動画に至る、ということを繰り返している。

そんな動画で出会った藤井聡先生(京都大学大学院教授)と中野剛志先生の、熱い怒りに私は猛烈に感動した。

私事だが、かつて心を病んで苦しんだことがある。その経験が私をヨーガに向かわせた。
癌患者さんとは異なり、心を病んで命が危うくなることは基本的に(肉体的に、というべきか)ないわけだが、ただ、容易に死にたくなってしまう。
ほんとうに具合が悪い時はあらゆることに意欲がわかず無理なのだが、ちょっと元気になりかけた時にその元気の方向性が間違ってしまうそうだ。これは救急救命士の先輩に伺った話なのだが、実体感としてもそんな感じだった(幸いなことに実行には至らなかった)。

藤井先生と中野先生は、困った人を助ける力や役割を持つ人に対して「みんなを助けんかい!!」ということで、「激おこ」して下さっている。この点に私は魂を奪われたのであった。

この二人の、他者に対する強い共感と、その思いを明確に表明なさっておられることがとても素晴らしいと思う(きっとたくさん批判も受けておられるのであろう)。

人の成長には二つの道がある、とウィルバーが言っている。
一つ目はグローイング、これは通常言われる「成長」の道。
二つ目はウェイキング、こちらは「目覚め」の道である。
ヨーガはこの二つ目の道のための道具だと私は考えているのだが、ヨーガ業界の主流は成長のために体という道具を活用しませんか、と言っているように聞こえる。心身二元論に陥り、本来分かつことのできないものがバラバラに語られているように思う。

目覚めの道では、人は徹底的に自分自身に向かい合うことによって、自分の中心に人と一体になれる場所があることに気付く。

私の心臓の中にある生命原理は、あなたの心臓の中にある生命原理と全く同じ力(エネルギー)なのだ。だから、この道を歩んでいくと、人のことを無視できなくなると思う。現実生活では全く接点のない人に対しても、慈悲の心で思いやることができるようになるはずだし、そのためにヨーガの修行がある。

かつてウクライナにボランティアに行ったとき、もちろん手弁当なので何十万もの旅費を負担したが、それをもったいないと言うんだったらヨーガをやっている甲斐はないのだと思った。ヨーガ以前の自分は心が狭かったので、私の心は行によって育てられた思う。

そして今、この状況の中で、金銭的な困難を抱えて死にたいと思っている人が間違いなくいる。声を大にして言いたい。金のことなんかで死んではいけない。絶対にダメだ。
ここで私が叫んでもあまり多くの人に届かないので、せめてもの代わりに私は藤井先生や中野先生のツイートに反応することで、自分の意思を示すことにしている。