蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№337 感情の抑圧

「抑圧の力は私たちすべての中に働いている。
私たちはみな、程度の差こそあれ自分を否定したり、裏切ったりするものだ。」

 

からだから始める、というとどうしても筋肉や骨(関節)のことを想像してしまう人が多い。これは、現代社会でヨーガがフィットネス的に捉えられているからだろうが、それ以上に、からだを物質として考えしまう癖がしみついているからでもあると思われる。

からだは感情が宿るところである。
記憶は身体感覚と共に残るものなので、薫り(匂い)や情景、皮膚感覚で記憶が引き起こされることは誰しも経験があると思う。

からだから始めるということは、感情をも癒すことが視野に入っているということでもある。

こころとからだでは、絶対的にこころの力が強い。
目に見えないものは、見えるものより精妙であるがゆえに強大であると言われる。
その強大な力の前には、からだは容易く屈服してしまうからこそ、こころとそのあらわれである感情を扱えるようにしていくことは、人が健やかに生きる上でどうしても必要である。

 

ストレス性の疾患も、その始まりには強い感情を伴うこころの動きがあったはずだ。
では、感情を感じることは悪いことなのか?
そうではなく、感情を抑圧してしまうから、肉体にその精妙な力が潜ってしまうのだろう。

漢方では内臓と感情を関連付けている(ヨーガではそこまで緻密なことは言わないので、非常に感心している)。
例えば、肝臓は怒りと関連があるという。
脾(膵臓のこと)はくよくよと思い悩むこと、肺は悲しむこと、そして腎は驚き恐れることで傷む。

現代の社会では、ネガティブな感情を持つことが悪いことのように思われている。
自覚しているものでも症状が出るのに(例えば、しょんぼりすることがあると風邪を引きやすくなる、など)、抑圧されたらどうなるか。
押さえつけられて隠された感情は、肉体などたやすく壊してしまう力を持っていることを忘れないで欲しい。

ヨーガは体操じゃないよ!と口を酸っぱくして言い続けているわけだが、ヨーガでは「二極の対立の克服」という大きな目標がある。
体操はやっているが、この点が伴っていない人が多いように見受けられ、非常に残念である。

「苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いの準備をせよ。」
バガヴァット・ギーター第2章38節にある有名なこの言葉は、好戦的な志向を示すと誤解されることもあるそうだが、この言葉をかけられているアルジュナは武人なので、目の前に現れた彼にとっての義務である戦いから逃れることのないようにと教え諭されている。

この世の多くのものが対立を伴ってあらわれることに、不思議さを感じたことはないか、とウィルバーも書いていたが、感情も同じである。「負」に分類される感情を抑圧してしまったら、この世はとても平板な世界になってしまい、喜びは色あせて見えるに違いない。

健康という視点から見ても、人生をより良く生きる上においても、二極の片方を拒絶したり抑圧したりしないことが大事だ。

その練習をからだで行っていくからこそ、だんだん上手にできるようになるということは、実践すれば必ず至ることができる結論である。
ぜひこの体験を、多くの人に味わってほしい。

 

身体が「ノー」と言うとき: 抑圧された感情の代価