蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№907 花のしずく

晦日ですね。

2023年に気に入ったもの。
それはフラワーエッセンスです。

 

この秋から、サンディエゴ在住のYogaインストラクター・さとこちゃん、そしてNY在住のハーバリスト・さちこさんと一緒に女性のための講座を始めぼちぼちやっているところですが、ある時の講義で初めてフラワーエッセンスのことを知り、入手してみました。

エッセンスの効果は霊的なものだとか。

ホメオパシーと同じなのでしょうか?
まだ全然知識がありませんが、毎日摂取することを行なって3ヶ月になります。

 

自分の内的な求めに応じたものを4種類チョイスし、朝晩摂取します。こんなにとっていいのかもわからないのですが。

 

初めの3ヶ月は、梅花藻、不死鳥、現の証拠(これはすべて植物の名前です)と、ブレンドエッセンス1種を。2クール目は、背高泡立草、大松雪草、石斛、宇宙桜をチョイスしました。

 

どんな求めに応じてこれらを選んだかを書くのはちょっと照れくさいので、内緒にしておきます。

 

うん、確かに、という効果は自分自身で感じます。なので2クール目に突入したわけで、3ヶ月後にどんなエッセンスを欲しているのかも楽しみです。

 

今回は、どのエッセンスにしよう?と想うとき、自分の中にどんな悩みや不足感、違和感や不満足があるかを見つめることになります。そのことを通じて、「ああ、私は自分のことをこのように評価しているのか、世界をこのように見ているのか」と突きつけられます。

 

 

昨日から私はなぜやら哀しい気分で、せっかく湧き上がってきたこの気分をしっかりつかまえて、味わい尽くしてやろうとしているところです。「ああ、そうだね、哀しいんだね。哀しみがそこに確かにあるんだね」という具合に。

 

哀しい理由は個別具体的なものであったはずなのですが、じっくり味わおうとし、泣いてみたりしていると、個別具体的な事象の「背景」のようにして、ずっと以前からその哀しみがあったことが見えてきます。それは、相当な前から(もしかしたら私が生まれる前から)そこにあったんじゃないか、という気がしてきます。

 

この、元来あった哀しみに触れさせようとして、世界が(絶対者が)、個別具体的な体験を私にさせたかのようです。

 

こんなことを書いていると、新美南吉の「でんでんむしのかなしみ」を思い出しました。先ほど調べてみましたら、Web上で全文が読めるサイトがあったので、ご興味がある方は探してみてください。

 

「私は今までうっかりしていたけれど、私の中には哀しみが詰まっている。この悲しみはどうしたらいいのだろう?」

結論。


「哀しみは誰でも持っているのだ。私ばかりではないのだ。私は私の哀しみを、堪えていかなきゃならない。」

 

そしてでんでんむしは嘆くのをやめたのですが、ここででんでんむしは「嘆くのをやめた」のであって、「哀しむのをやめた」のではないのです。私はそう読みます。哀しいことを、自明のこと、あってあたりまえものとして、ただ許し受け容れたのだと思うのです。

 

 

今朝の夢のなかで、個別の私の視点が非常に限定されたものであることを、やや哀れに思いながら文字愛に溢れた眼差しで見つめている、観察する者としての自分の目玉を感じていました。

 

視野狭窄であるからこそ、体験は激烈で味わい深い。私たちは望んで、この限定された視野と体験を求めてきた。そのことをわかっていれば、哀しみも安心して抱き留めてやれるのではないでしょうか。

 

 

かなしみは寒がりだからすぐきみの胸の暖炉に集まるんだね  木下龍也