蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№332 形ではなく

「実習はどれくらいやったらいいですか?」というご質問をお受けすることが多い。
今より1分でも多かったら、まずはそれで良いと思う。1か0なら1の方が良い。

何分、何回という指標は確かに分かりやすいのだが、内的感覚を感じることができなくなっているから、数的指標でしか進歩を測れないという問題点を内包しているかもしれない。

毎日3分座るといいですよ、という提言は、1か0かということでなら十分だろうが、では3分かけてどのような内的状態に達し得たのかを、自分が感じることがとても大事なので、何よりも「感じる」ことを大切にして欲しいと思う。

呼吸法に取り組む方法として、吸うことと吐くことを1:2で行うことがある。マントラを用いて「ソーハム」と唱えながら行うこともあるが、数でカウントするよりもこちらの方が自然に感じるし、そのまま自然な呼吸を数える数息観がいいかもしれない。4吸って、15止めて、8で吐く、と聞くとなんだか息苦しくなってくるような気がするのは、私だけだろうか。

心身が別々のものであるかのように扱われていることに、私はとても危機感を感じる。
心とからだが別々ならまだいいのかもしれず、私自身とその肉体が別々の存在のような感覚の人が実は多いのではないか。
自分の肉体をどう扱ったらいいのかがわからないのは、内声を聴く習慣を持たず、内的な感覚を感じ取る練習をする機会を与えられてこなかったせいだろう。

まず「自分はどうしたいか」を、選択する練習を知稲佐ことからやってみたらどうですかと申し上げている。
日常生活の中で「どうする?」とか「どっちがいい?」と聞かれる瞬間は案外多いのではないだろうか。絶対にこれでないと嫌です!などと言って人と喧嘩するような人は、そもそもヨガのようなアプローチはまだるっこしいと思ってやって来られないので、謙虚に、人を優先して「いえ、どちらでもけっこうです」とか「お好きな方で」と言い続けてきた方に対する提案である。

右の丸いチョコレートと、左の四角いチョコレートのどちらがいいですか?という単純な問いに対しても、自分という存在が、今、何を求めているのかを知る機会にして頂き、「今この瞬間に、私の全存在が右側の丸いチョコレートを欲している!(たぶん)」と覚悟を決めて選ぶという実験をしてみて頂きたい。数日後に、何かしらの心的な変化が起こっているかもしれない。

形や回数にこだわらない心を持ちながら、ある形(ポーズ)を取る中で、またはある呼吸を繰り返す中で、自分自身がこれまで感じて来なかった新しい感覚に気付くことができるかについて、ヒントを与え続けられるような教師でいたい。
そして、ヨガでなくても、様々な活動のなかで、心身も、天と自分自身も統合されていると思えるようになってほしい。
教師として単に手法を教えることに堕してしまうようなことがあれば、私は潔くこの業界を去ろうと思う。