蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№331 答えのない問い

しばらく前にしまださんから与えられた問いに、答えが出た気がする。
険しい山中で修行三昧に生きる行者さんは幸せなのか?という問い。

数日前、仲間が集まって開催している読書会に、著者の方をお招きしてなんでも質問できるという贅沢な時間を持つことができた。ご厚意で参加して下さった著者の鈴木先生に大感謝である(あえて“先生”と呼ぶのは、私にとって愛の表現みたいなものなので許して欲しい)。

 

 
感染症のことがなければ、オンラインでこの読書会が行われたかどうかわからない。
オンライン飲み会の時に盛り上がり、勢いで立ち上がった読書会だから。そしてこんな状況でなければ、先生はわざわざ参加してくれなかったような気がする(代わりに、リアルな出版イベントが開催されていただろう)。

数名の参加者がそれぞれ活発に問いを発し、様々な示唆を頂いた。
どの質問にも答えなんてない。これからどうしていくのがいいのか、自分の悩みの方向性は間違っていないか…。どの問いにも非常に真摯にお答え頂き、この方の人としての器量と愛を改めて感じさせられた。しみじみと私はこの方が好きだ。やり取りをした晩、夢に見てしまうほどに。

現在の状況の中で、世界をこれまでと同じように見ることができなくなった。
これは悪い面ばかりではないと思う。これまで全く知らなかったこと、興味を持てなかったことに対しても意識を向け、積極的に調べたり本を読んだりしている。届く本のジャンルはこれまでとはガラリと変わって多様性を増している。そしてますます世界は違って見えてくる。自分の無知が恥ずかしさを通り越して恐ろしく、馬鹿でいるからこそこの世がなんとなく楽しげに見えていただけだとわかった。

今の私は世界に軽く絶望している。
同時に、今、確かに生きているこの世界に対して、完全に絶望したりできない。
これまでに何度も、自分のことが森の木の樹洞のなかで惰眠を貪っている栗鼠かなにかのように感じられることがあったが、感じもなにもまさにそのとおりであったし、もしかすると、実際に森に生きる栗鼠以上にお目出度い生物だったのかもしれない。厳しい自然と、素のままで共存する栗鼠に謝らなくてはならない。

冒頭の問いの話に戻ると、山の中に籠ってしまう選択をした行者さんの絶望感を私は想像し得ていなかった。最も深い眠りのなかでのみ現前するものこそが真のリアルである、という言葉は、起きて見ている世界が、教えのなかで示され、私たちが目指すべきとされている善とあまりにも乖離しているということを暗に表現しているのではないだろうか。

この世はすべて迷妄である、ということは、単に哲学的な言葉なのか。それとも過酷な現実を前にしての魂の叫びなのか。今の私は後者のような気がしてならない(数年後には違う理解に至っているのかもしれないが)。

そして、カルマ・ヨーガの意味するものも、なんとなく理解できたような気がする。
「無為になるな。汝の為すべきことをなせ。」とクリシュナ神は言う。
そして、自らが為そう、と決めたことが山に籠ることだったとしても、世俗の中で闘うように生きることだったとしても、どちらでもいいはずだ。

この世に絶望しても無為になるな、という教えをもカルマ・ヨーガは示しているのだとすると、以前にも増して「バガヴァット・ギーター」を、現代の自分なりの視点で改めて読み解こうとすることが大事になると感じている。何か別の媒体を使って、かつて救われたと感じたことのあるこの書籍について、誰かに向けて語ることを始めてみたい。

自分がどれほど無知で愚かかわかってくると、身が竦む。足が震えるようだ。
自分にできることなど何一つないような気持ちになる。でも、こんな私でも、これまで自分が見聞きし、取り組んできた事々から何かしらの真実を受け取ってきた。そして救われた。この真実は他の誰かの役に立つのだろうか?立たないかもしれない。
でも、もし、たった一人だけにだとしても役に立つのだとしたら?
だから私は何とか自分を奮い立たせて、バガヴァット・ギーターの言葉に従おうと思っているのだ。

読書会後の鈴木先生のブログに大いに力を頂いたので、忘れないようここに記録しておく。
http://norio001.integraljapan.net/?eid=358

私も、答えの無い問いと格闘できる人間になりたい。山に籠っても、籠らなくても。

№330 色々間違ってる?

ヨーガの体操は、ストレッチと同義だと思っておいでの方が多い。

確かにヨーガ・アーサナで体はしなやかになるが、ストレッチでそうなるというのは間違い。正しくはアイソメトリック的効果が生じ、柔軟性が増すだけでなく筋力も向上している。

もう一つ。
これは前にも書いたような気がするが、ヨーガでは物事を客観的に見ることを重視するが、その前により重要な取り組みがある。「意識化」である。


今のこのような状況で、私のようなヨーガ・セラピストがどんなお役に立てることのだろうか悩むが、ヨーガ4000年の歴史の中で、絶望的な状況の中でも信念を貫き、より善い生き方を自分自身のうちにだけ探し求めるのでなく、世界にも影響を与えたマハートマ・ガンディー翁のようなヨーガ行者もおられた訳だから、私もできることを少しずつ続けていきたい。


ガンディーがヨガ行者?、と思われる方もあるかもしれない。
マハートマ・ガンディーは、「バガヴァット・ギーター」を座右の書としてその人生を歩んだカルマ・ヨーガ行者である。カルマという言葉は「業」という意味もあるが、ここでは「行為・行動」を意味する。自らの行動を神に捧げる「行為のヨーガ」、これがカルマ・ヨーガだ。

王道のヨーガというものがあり、「ラージャ・ヨーガ」と呼ばれる。
ちなみに私が学んでいるのは、このラージャ・ヨーガだ。
カルマ(行動)、バクティ(信じること)、ギヤーナ(哲学的理解)という三つのヨーガ行を水平的に行うと共に、八支則という階梯を通じて垂直的な成長も希求する。ラージャ・ヨーガ行の中では、ハタ・ヨーガ(いわゆる体操)は本流ではなく道具の一つである。

ヨーガは人間発達の道であり、自分のことしか考えることのできない獣のような人間から、生きとし生けるもののことを我がこととして考え得る人間へと、進化することを目指す。結果として、マハートマ・ガンディー翁のような人が生まれる。

インドでは、父から子へとヨーガが伝えられる。
10歳頃になると、体操を含めたヨーガ行を親御さんから直々に教えられるそうだ。ちなみに、それ以前の年齢の子供にはポーズも含めて指導しない
なぜなら、心身の発達が未熟な段階でヨーガの体操を行うと、心身発達の害になるからだ。

体操実践が十分に出来ないうちに、調気法(呼吸実践)や瞑想ができないことも分かっていて欲しい。例えば、食実践に工夫をせずにヨーガ・アーサナを行うと、腸を傷つけることがあるし、毎日、肉をモリモリ食べていて善性にはなりえないだろうから、瞑想は初歩的な段階に留まってしまうだろう。心身は一つなのだ。

何事にも順序というものがある。間違えれば危険があることは伝統の中で伝わってきているのだが、現代のヨーガ教育の中で十分にその情報が共有されているかどうかは大いに不安が残る。

ヨーガが体操、しかもストレッチという誤解を抱いたままだと、色んなことが見えなくなるから要注意。

 

 

№329 それはyogaなのか?

“yoga”をしよう、と生徒さんに言うとき、その意味するところは「あなた自身のからだの中にいながら安心を感じよう」ということになる。

何年もずっと口を酸っぱくして言ってきているが、「ああ、わたしはだいじょうぶだ」という心地にならないんだったら、それはyogaではない。ただの体操である。

生きていると様々なことがあるので、家でひとりでいるのに、いつかのなにかに追い立てられるような気持ちになったり、目の前にいない誰かの声が聴こえてくるような気持ちで生きている人がとても多い。そのことに”ストレス“という名前がついている。

ストレスは単なる負荷であって、ほんとうは悪者ではないのに、いちゃいけない害虫のように思われている。負荷のない人生で、人は成長なんてできないのに。

”ストレス“フルな生活が続くと、ほんとうに病気になってしまう。
原因はそこにはないのに、痛いところや辛いところが悪者にされてしまう。
腰痛ですねとか、膵炎ですね、とか。

ほとんどの人が、いつも、あたまのなかで何かを考えている。
スイッチがどこかわからなくなって、電源も切れないし音量も下げられないラジオみたいに。ラジオをそのまま外に投げ捨てて、壊してしまいたくなっても不思議じゃない。

yogaと同じ誤解が、瞑想(マインドフルネスといってもいい)にも起こっている。
1日10分坐って、残りの23時間50分が思考まみれで、睡眠も気持ちよく取れないようなら、その瞑想はいったいどんな意味があるの?

欲張りで、面倒くさがりだからyogaをやっている。
痛いのも辛いのも、気持ち悪いのも嫌だから、ほんの少しだけがんばってみてもいいかなと思うし、終わったあと、いつもとても気持ちよくなるから。

アサナ(asana : yogaの身体的実践のこと)をしているとき、どんなに心を鎮めて自分のからだの細部に意識を向けているか、外からは決して見えない。
ほんの僅かに力を加えるだけで、脂汗が出るような感覚を得ていることも見えない。肉体の反応につられずに、呼吸を平静に保とうとしているとき、思考が入りこむ隙はまったくないことも、外からはわからない。
だから、外から見た何かを手本にしてyogaを学ぶことはできないと思う。
そんなことをすると誤解が生まれてしまう。poseという誤解。

asanaをしていないときも、あたまのなかに言葉がめぐることはない。
リフレクションをするとき、こうやってブログを書くとき、本を読むとき、メールに対応するとき、言葉は湧いてくる。そうでないとき、波立たない水面のように心は鎮まっている。そこに時折、木の葉が舞い降りてきたりするけれど、ただそれだけ。

かつて自分の頭のなかは騒音だらけ、身体は不調だらけだった。
約10年かけてこの静けさを手に入れて、同じ体験を人にもして欲しいとつよく思っている。
なぜって、自分に出来たということは、他の誰にでもできるからだ。

10年は長いだろうか?
もし今、あなたが静けさを手に入れようと決めたら、10年後には私と同じことを思っている。この言葉が嘘でない事を理解できる。これまで一緒にyogaをして、途中で諦めなかった方々は10年を待たずにそうなっている。その体験をしてもらうこと、理解してもらうことがyoga教師としての私の仕事だからだ。asanaを教えることが仕事なんじゃない。それは絶対に違う。

でも「10年かけるなんていやだな」と思って試すことを諦めてしまったら、たぶん10年後も今と同じことで悩んでいるか、今よりももう少し事態は複雑になっている。

10年が長いことは私もわかっている。
それでも、今になにか悩ましいことがあるのなら、違う10年後を見ましょうといいたい。価値のある10年だったと語るとき、ほんとうに嬉しいから。

10年かけていいと思ってきたから、そんなに難しくなかったのかもしれない。
私はそんなに賢くないから、時間だけが味方だった。時間をかけることと身体的実践は、私を決して裏切らなかった。たぶん他の誰のことも裏切らない。

yogaと呼ばれる実践方法が長く伝わる理由は、そこにあると思っている。
目を閉じて。感じて。
10年と言われたことも忘れて、今ここでこうしていることだけに意識を向けて。
そうするとき、私は永遠に存在しているのと同じ。そして同時に、一度も生まれたことがなかったような気もする。

ああ、自分はだいじょうぶなんだと思えること、それを”sukka“という。
苦のない状態のことを表現する言葉だ。
生きていて、いつでも大丈夫なんだと思えるようになるために、yogaという実践がある。
決して誤解しないで欲しい。
Asanaに意味はない。あなたのsukkaにこそ意味がある。

№328 身体というシャドウ

今日、日々内省のために書き連ねているリフレクション・ジャーナルが、6冊目に入った。混乱したり悩んだりしている時にこのノートと向かい合うことで、これからも助けられると思う。
しかし、このノート達は、私が死んだあとはいったいどうなるのであろうか。そして死ぬとき、ノートは何冊になっているのだろうか。

さて、今日はある方と約4年ぶり?にお話をさせて頂いた。
加藤ゼミ「卓越性の研究」の同窓生のの方で、リアルにお会いしたことはたったの一度。ゼミの同窓会を、神楽坂の豚肉料理店・シャ豚ブリアンで開催した時にお会いした。なつかしいなあ。

そして本日のこの対話が行われたのも、加藤先生のお蔭様である。メールを差し上げようかとも考えたが、先生の日々の静謐さを阻害したくないのでここでお礼を申し上げることにしたい。ありがとうございました!


さて、心身の統合は非常に大事である。

という表現をすると、「いったいなんのこっちゃ」と思われる方もおいでになるだろう。

ではここで質問。
あなたは、あなたの肉体を完全に自分のものだと感じ、肉体をもって生きていることに絶対的な安心感と至福を感じていますか?

私自身のことを語らせてもらえるならば、15年ほど前の私は肉体という地獄に捉われていた。なぜこんなに苦しいのかと。なんの病気も無いのになぜ。
例えば、耳を取り外してその穴の奥までブラシでごしごし洗ったり、目の玉を外して裏側に目薬を差したいと思う人は、かつての私以外にもいるはずだ。この脳みそをもっと賢いものと取り替えたいとか。

どこかに不調が現れたとき、あなたは新しい新鮮な、そして性能の良いなにかと、自分の“部分”を取り換えたいと願うだろうか(こんなふうでなければいいのに、と感じるのは病だとyogaでは言う)。
音楽を聴くとき、音を皮膚で感じるだろうか。体の中心に音が響くことに気付いているだろうか。隣にいるある人のお蔭で、口にするなにかが最高においしいものに感じられたりすることに気付くだろうか。
昨日と今日の自分の身体の違いを感じて、日々の営みを少し加減してみたりしているだろうか…

心と体にズレがある時、人はきっと腹の底では気付いている。なんだかヘンだとわかっている。
でもそれを外界の事物に投影したりして、自分のものでないことにしてしまっている。

シャドウワークの重要性を感じている人は多いと思うけれど、実は身体そのものが大きなシャドウと化しているのではないかと、今日対話の中で感じたのだ。

なぜあの優秀な人が、自分の身体を機械かなにかのように扱うのかと不思議に思うことがあった。逆に、言葉が理性と肉体のマリアージュのように魅力的に発せられ、こちらの心身を痺れさせる人もいる(たくさんはいない)。

心と肉体がぴたりと一致して生きる安心感を、もっと多くの人に味わってほしいと思う。それはなにかの薬を飲めば達成されるようなことではなく、時間と少しの努力を要することだけれども、その取り組みを行ってみれば必ず気付くはずだ。
肉体があるからこそ、苦しみや困難があったとしてもなお、喜びや満足を感じることができるのだと。

ヴェーダでは、この肉体はアートマンの馬車に例えられる。
私は今生、この馬車でやっていく。この車は軽自動車か、最高級のセダンなのか、それとも夢の乗り物か。たぶん、すべて自分で決めることができる。いつからでも変えることができる。

その性能や乗り心地を、決して外からの見た目で評価してはならない。
そんなことをすると重大な間違いが生じたり、落とし穴に落ちたりする。
はりぼてのように外面だけが素敵な乗り物でなく、ドアを閉じてそっとシートに身を委ねると、感極まって背筋に電流が流れるような、そんな乗り物に乗って生きたい。そんな乗り物として、誰かと一緒に活動したい。

そのために身体的実践はある。

人生は決して安定しない。胸を掻きむしられるように苦しいこともある。
それでもあなたがその肉体の中で生きることで、「自分は確かに守られており、安全である」と感じることは可能だ。あなたの身体の実践がまだその感覚をもたらしていないのならば、肉体を持って生きることの凄さに、まだ気付けていないだけかもしれない。

人が心身の統合を遂げることができれば、原因不明の慢性病などは減っていくはずだ。だから一人ひとりが自分の身体と向き合うことは、次世代の医療へとつながっていく。

あなただけが、あなたという存在の権威なのだから、どんな判断も人に預けずにすべてあなたが決めて欲しい。
きっとできるから、諦めないで。

№327 現れのひとつ

 

久々に再会した方が、「今は陰謀論を信じている」と言った。
常々、その方が語ることに刺激を受けてきたので、これは数冊本でも読んでみるかなと思ったが、なかなかこれというものに出会うことができなかった。これは数か月前の話。

今、感染症の影響で、様々な事が大いに変化を遂げつつあるなか、自分自身ものの見方が揺さぶられて、既存の枠組みが確固たるものではないことを確信しつつある。
過去に「これは読んでおいた方がいい」と言われ背伸びして読んだ書籍の中で出会った事々が、今、現に目の前で起きているような気がする。

私たちが携わる分野は、オルタナティブメディスンと呼ばれる。
ナチュラルでなんだかよさげに聴こえるだろうか? でも、オルタナティブは何かの代わりということだから、本当はこんな名称で呼ばれたくない。

これまで知らなかったのだが、報道の世界にもオルタナティブと呼ばれる人たちがいるそうだ。この世界は、平凡に暮らす私たちがほんとうに知りたい情報が平気で消されたりするところだった。

この数日、色んなことを自分で調べてみた。きっかけはある人の言葉だったり、また別の人が教えてくれた映画だったりする。
とんでもない!と思うことから、これはあり得るかも…と思うことまで、インターネットの広大な海の中の、日本語で入手できる狭い世界で、私からするとアッと驚くようなことが語られており、今私が知ってアッ!と言っていることを数年前から語っている人もいる。

すべてのことに、割合は違えど真実が含まれている。答えがないことに対して、私たちはどのように自分の態度を決めていけば良いのであろうか。

昨晩は、この世界で自分ができることが一瞬見えなくなったような気がしたのだが、今日は世界の枠組みが揺らいで見えたことに感謝している。きっとこれは瞑想みたいなものなんだ。これまでまったく見えなかったものが、目の前に立ち現れてくるという経験は。

明日のオンラインでのレッスンのために、ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」を取り出して読んでその文章に癒され、今こういう時だからこそ、私は非二元を大事にしたいと強く感じた。

 

常に、既に現前しているのだから、この数日に私が目にしたもの、聞いたものもスピリットの現れの一つなんだと、そう思うこととそれを伝えることしか、私にはできない。
だからどうしても世界に向けて語りたいことを、淡々と語っていくしかない。決して出会うことのないひとが、たったひとりだけでも聴いていてくれるかもしれないと信じて。


「冷たい水晶のような透明な夜、月が静かに大地を照らす。そこにいるものに、すべては遊びであることを思い出させるために。月の光が眠っているハートの夢に火をつける。そして、夜の深みのなかから、あなたを起こそうとする。あなたは、もっとも単純な祈りに答える。あなたは、今、ここに自分を見出し、いったい、すべてにどんな意味があるのかを考える。その時、あなたは、気が付く。そして、すべては解きほぐされる。やがて、あなたは月として身を起こし、月の夢を自分の心のなかで歌う。あなたは大地として身を起こし、その祝福されるべき住民たちに栄光を与える。やがてあなたは太陽それ自身として身を起こす。無限に輝いて、あまりにも明白な太陽として。この原初の純粋な「一味(ワン・テイスト)」に始まりはなく、終わりもない。入り口もなければ、出口もない。不生不滅。すべてはただあるがままである。はるかに響く滝の音だけが残って、この物語を語る。この水晶のように冷たく、透明な夜に、かくも美しい月の光を浴びて歌う滝の音が、すべては、あるがまま、あるがままと語る。
 偉大な禅の老師の法常が死ぬ時、リスが屋根の上で鳴いた。老師は言った。
『まさにこれである、それ以外のものではない。』」

―「存在することのシンプルな感覚」第9章より引用
 ケン・ウィルバー/松永太郎訳 春秋社2005
 

 

№326 全体性へと帰る

いま、白隠禅師にハマっている。
「軟蘇の法」というのをお聴きになったことがある方もおられると思うが、修行を志す者に心身のケア技法を書き残し、後世の修行僧を救ったと言われる。心身を置き去りにした修行の危険性を白隠禅師は伝えてくれたが、残念なことにあまり知られていないようだ。

 

ストレスによって心身が悪影響を受けることは広く知られている。
ある症状に悩んで通院したところ、どこも悪くないですよとか、ストレスじゃないですかと言われて立腹した経験のある方は多いのではないだろうか。私ももちろん言われたことがある。そのとき「じゃあストレスってなんやねん!」と思ったものだ。

ストレスとは、1936年に生理学者ハンス・セリエが定義した「外部環境からの刺激によって起こる歪みに対する非特異的反応」のこと。
「ストレスを引き起こす外部環境からの刺激」をストレッサーという。

 

ストレッサーとして、4つの分類がある。

1.物理的ストレッサー:寒冷、騒音、放射線など

2.化学的ストレッサー酵素、薬物、化学物質など

3.生物的ストレッサー:炎症、感染、カビなど

4.心理的ストレッサー:怒り、緊張、不安、喪失など

 

ストレスのことをわかろうとすると、ホメオスタシスについて知っておかないといけない。そうでないと「非特異的反応」という言葉の意味がさっぱりわからない。内部環境を一定の状態に保ちつづけようとする傾向のことを、ホメオスタシスという。生物だけでなく、鉱物でもある働きだそうだ(ちょっとびっくり)。
生きものが生きものとして生存するために、一定の決まりがあって、その決まった状態に戻ろう、戻ろうとする働きのこと。この決まりの中で基本的に体は仕事をして、健康を保ってくれているわけだ。

ストレスがただそれだけで悪いわけではないのだけれど、それに対する反応として、本来あるべき”普通“の状態が崩れると、非特異的反応なる“普通”ではない反応が引き起こされる。これがストレス反応。

ストレス反応というのは、本来長く続くものではない、という想定の下に起こる。
あなたが家の中でいつもどおりに過ごしていたら、窓に何やらぶつかった音がしたのでふと目を上げると〇〇(*一番会いたくないいきものの名前をいれてください)がいて、こっちをジロリと見つめていた。
ギャー!と叫んであなたはその部屋を飛び出て、安全だと思える場所へ避難する。
隠れてゼエゼエハアハア言いながら、「なぜあんなものがあんなところに…」と考える余裕が生まれると、大きく息を吐きだせるようになる。しばらく間をおいて元の部屋に戻っても、そこには〇〇の気配もない。「ああ、良かった…」と感じながら、あなたは体からスーッと力が抜ける心地がする。

ストレスって本来そういうものであって、一時的であることを想定されて、ちょっと普通じゃないことに対処するようにできている。しばらく経つと、ストレス反応は止まり、楽な状態に戻るはず。この、ちょっと普通じゃないことというのは「自分が安心できないこと」と言いかえてもらってもよい。

なので、
①何に対してストレスを感じているのか
②その結果心身にどのような影響が出ているのか
③その影響を無くすためにはどうしたらいいのか
という3点を、まず考えなければならないことになる。
ここでいう②のことを「ストレス反応」という。みんな、②をどうしようかと悩まれているわけである。

ヨーガは体操だという残念なレッテルを貼られているので、ストレス反応としての痛みや症状をなんとかできるポーズありませんか?と聞かれるわけだが、本来ヨーガ的なアプローチが行っているのは、①に対してストレスを感じなくなる自分を育てるために、②のストレス反応は重要なきっかけを作ってくれたものと考える。
次に〇〇がやって来ても、こちらからジロリと睨み返せるようになるのが、ヨーガのめざすところ。

さて、ストレス反応が起きた時のからだはどうなっているか?
心臓はバクバクして、脈が速くなる。息は止まったり、浅く速くなる。走って逃げだすために血糖値は上がり、血圧が上がり、筋肉に血が流れ込む。消化活動は止まる。危機的状況なので、こんな時に、治癒とか消化・吸収とかできないことは想像できると思う。

これは「闘うか、逃げるか」の反応と言われることが多いけれど、「その場で凍り付く」という反応もある。これが一番怖い。トラウマとなって後々まで苦しめられてしまう。

このストレス反応と真逆なのが「リラクセーション反応」
ハーヴァード大学で、当時循環器内科医だったベンソン博士が行った研究をもとに名付けられた。
無症状なのに心臓病になってしまう高血圧症の患者さんに対する疑問から、ストレスと血圧上昇の関連について注目したベンソン博士は、超越瞑想の実践者との研究に踏み切る。1970年代のことで、異端な人たちと関わり合いになるのは抵抗があったし、研究は隠れてやったんだと言っておられた(時代は変わったなあ)。

ラクゼーションの練習をすると、ストレス反応を解除することができる。
でもおかしいとおもいませんか。
本来ストレス反応は一時的なものなのに、なぜわざわざリラクゼーションを練習しないといけないのか?

問題は、現代のストレスが「思考」に由来するということ。
頭のなかの仕事や上司は、いつでもどこでも一緒で離れることができない。コロナに関連した心配事は引きも切らない。一体この先どうなってしまうのか、考えても答えなどない。
このような思考の下に常時ストレス反応が起き続けているのだ。この結果、ストレス性疾患という病態が発現する。
感染症の影で、ストレス性疾患の種がまき続けれらていることを、私はとても危惧している。

ストレス対処のためには、なにか新しい活動をするだけでなく、その手法を用いて、頭のなかに浮かぶことの質を変え、最終的には思考事態が減っていくようにする必要がある。
この点を十分にわかっていないと、やったときに楽になるだけの依存的なものになる。

ベンソン博士の果たされた仕事の偉大さは、毎日20分やらないと、毎日のストレス反応の悪影響をなしにできませんよ、ということを明確にしたことだと思う。
でもここでもう一歩踏み込みたい。
実践を行っていくと、そもそもぐるぐる思考は浮かばなくなっていくし、自分にとってストレス反応を生じさせる生き方自体について改めて考えていくことになる。これが、全体性を目指す生き方だと思う。

ベンソン博士はすごいと思うけれど、「じゃあ毎日20分やれば、もっと働いても大丈夫だよね!」という方向性で使われているような気がしてならない。
それでは、自分のなかの何かが置き去りにされたままになるような気がする。
それが哀しい。

 

 

№325 呼吸から安心感に至る

呼吸と免疫のことについて書こうかなあと思っていたのだが、免疫力というのは肉体の防衛機能であって、人間存在が持つ力の一部でしかないと思った。

数値で証明できるものだけを礼賛する風潮を、ウィルバーは「フラットランド」と表現したが、健康か病気かということが西洋医学的に判断されることの多い現代において、目に見えない健康を保ち、更なる健康を求めるには少々工夫がいるようだ。

免疫力が高いかどうかを、どうやって判断することができるだろうか?
そもそも健康であるとはどういう状態だろうか?

肉体に病気が見つかっていないだけで「健康」というのは少々心もとない。
漢方では「未病」という概念があるが、実際に検査や数値に異常が出て明確に病気と判断できる以前に、「まだ病気ではないが決して健康ではない」という状態がある。免疫力が低いとは、この未病の状態ということができるだろう。
単に体質だと思っている軽い症状もこの未病の現れであることが多い。アーユルヴェーダや漢方などの伝統的な医療は、病以前の病態に関する多くの智慧を持っている。

検査等で何も異常は見つからないのに健康ではないという人は、何かしら本人に悩みがあるものだ。あなたが何か悩んで、苦しみを抱えているなら、それは病である。病として、適切に治療やケアが為されなければならない。大したことないのに、などという他者の言葉に耳を貸してはいけない。あなたはあなたの感覚を大事にしなくてはならない。

また、本人が悩んでいなくても、身近な周囲の人が悩んでいれば、それは健康とは言えない(社会的な健康、という概念)。

ヨーガと呼ばれる実践が目指すのは全人的な健康であって、肉体の健康だけでない。
全人的な健康を目指す過程で、結果的に肉体も健やかになるということだ。

この全人的な健康を目指すには、肉体からのアプローチがとても便利だ。
ここで少し免疫のことにも触れておくと、人間の免疫機能の多くは腸が担っている。腸には数多くの細菌が共生してくれていて、私たち人間が生きる上で必要な多くの働きを行ってくれている。心理的にストレスを感じて、破滅的な思考をすると、腸内細菌を痛めつけるような分子が出るという。体と心は怖しいほどに関連している。
健康を目指す伝統的な手法に、呼吸を置き去りにしたものは無いと思う。呼吸は肉体にも精神にも、大いにそしてダイレクトに影響を与えることができるからだ。

下腹部を動かすゆっくりとした呼吸を繰り返すと、横隔膜の上下運動に伴って内臓が動く。下腹部には迷走神経が走っており、腸から脳へ指令を送っている。浅く速い呼吸の場合は、横隔膜は上に上がってしまうため、この腹部のマッサージは起きない。

お腹と脳は関連して動いている(腸脳相関)。
お腹のゆったりした動きは脳へ信号を送り、「今、私は安全だ」ということを脳に認識させる。そして脳は、改めて内臓に対し、「安全な状況なので、消化や吸収、そして治癒に至る活動をしてもいいよ」と指令を出す。

あなたが意識的な呼吸の練習を行う時、自分の存在に対して「安心して健康になるための仕事をしてもいいよ」、とメッセージを発していることになる。

ストレスとは真逆のこの状態は、訓練でいつでもどこでも再現できるようになる。
外的刺激に応じてストレスが生じると思っている方が多いかもしれないが、そうではない。
どんなことが起きても、ゆったりとした呼吸を保てる人がいる。生まれつきの性質であったり、長年行ってきた武道などの取り組みがその要因になっている人もいるだろうが、後天的に身に付けることができる能力であることを忘れないで欲しい。

心配性だったり、落ち込みやすかったりして、自分のこんな性格を変えたいと思っている人は、騙されたと思って呼吸法を数か月学んでみることをお勧めする。
長い年月をかけて人体に対する効果が伝わっているのだから、あなただけが裏切られることはない。安心して大丈夫。