蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№334 苦しい人のために怒る

鳥取県は今日から学校が再開された。
我が家の剣士は今春から高校に進み、尊敬する先輩たちと共にインハイを目指して頑張っていたのだが、今年の試合はすべて中止となったそうだ。

部活動も再開したとはいえ、某県の警察官の方々が強化練習でクラスター発生したということがあったため、剣道は目を付けられているらしい。当分、防具も付けず基礎練習に励むという。
先輩方の無念如何ばかりか想像することしかできないが、全身から気力が抜け落ちるような思いでおられることと思う。言葉もない。


連休中はオンラインで仕事をしながら、YouTube動画で政治・経済について勉強してみた。難しいことはわからないので、twitterを見て疑問に思ったことを調べ、動画に至る、ということを繰り返している。

そんな動画で出会った藤井聡先生(京都大学大学院教授)と中野剛志先生の、熱い怒りに私は猛烈に感動した。

私事だが、かつて心を病んで苦しんだことがある。その経験が私をヨーガに向かわせた。
癌患者さんとは異なり、心を病んで命が危うくなることは基本的に(肉体的に、というべきか)ないわけだが、ただ、容易に死にたくなってしまう。
ほんとうに具合が悪い時はあらゆることに意欲がわかず無理なのだが、ちょっと元気になりかけた時にその元気の方向性が間違ってしまうそうだ。これは救急救命士の先輩に伺った話なのだが、実体感としてもそんな感じだった(幸いなことに実行には至らなかった)。

藤井先生と中野先生は、困った人を助ける力や役割を持つ人に対して「みんなを助けんかい!!」ということで、「激おこ」して下さっている。この点に私は魂を奪われたのであった。

この二人の、他者に対する強い共感と、その思いを明確に表明なさっておられることがとても素晴らしいと思う(きっとたくさん批判も受けておられるのであろう)。

人の成長には二つの道がある、とウィルバーが言っている。
一つ目はグローイング、これは通常言われる「成長」の道。
二つ目はウェイキング、こちらは「目覚め」の道である。
ヨーガはこの二つ目の道のための道具だと私は考えているのだが、ヨーガ業界の主流は成長のために体という道具を活用しませんか、と言っているように聞こえる。心身二元論に陥り、本来分かつことのできないものがバラバラに語られているように思う。

目覚めの道では、人は徹底的に自分自身に向かい合うことによって、自分の中心に人と一体になれる場所があることに気付く。

私の心臓の中にある生命原理は、あなたの心臓の中にある生命原理と全く同じ力(エネルギー)なのだ。だから、この道を歩んでいくと、人のことを無視できなくなると思う。現実生活では全く接点のない人に対しても、慈悲の心で思いやることができるようになるはずだし、そのためにヨーガの修行がある。

かつてウクライナにボランティアに行ったとき、もちろん手弁当なので何十万もの旅費を負担したが、それをもったいないと言うんだったらヨーガをやっている甲斐はないのだと思った。ヨーガ以前の自分は心が狭かったので、私の心は行によって育てられた思う。

そして今、この状況の中で、金銭的な困難を抱えて死にたいと思っている人が間違いなくいる。声を大にして言いたい。金のことなんかで死んではいけない。絶対にダメだ。
ここで私が叫んでもあまり多くの人に届かないので、せめてもの代わりに私は藤井先生や中野先生のツイートに反応することで、自分の意思を示すことにしている。

№333 免疫力を上げたい

「疫」という字は、悪性の流行病を意味するそうだ。
免疫力とは文字通り「疫を免れる力」、からだを守る防衛機能。

免疫システムは、基本的に2つの仕組みから成り立つ。
1つ目が「自然免疫」、2つ目が「獲得免疫」。
後者は高度な生命体のみに備わったシステムで、特定の病気に対して抗体を持つのもこのシステムのお蔭である。

数日前、長女がお世話になる予定の学生寮からお便りが届いた。
東京の現状と、若い人が感染症に罹患した場合の症状について説明があり、寮母さんたちは医療従事者ではないので、罹患したとしても十分にお世話ができないかもしれないということや、寮内で療養中に病状が悪化しても救急車もすぐに来てくれないかもしれないということが書いてあった。前期はすべてオンライン授業になったので、当分の間入寮の予定はないのだが、現在の寮の置かれている状況の厳しさがひしひしと伝わってくるお便りだった。

そして、そのお便りに「最後はひとりひとりの免疫しかない」という旨があったのだが、これまたマスク二枚と同じような“竹やり”感を感じて、私は腰が抜けそうになった… 
だって皆さん。 免疫力の上げ方とかご存知ですか?! 

ヨーガ教師として、身体的な面から生徒さんにアプローチする際に、お一人お一人の免疫力を上げることができるようにと必死に考えてきたが、それは決して単純な話では無いと思っている。

様々な角度からあらゆる手を打つ。しかし一つひとつは実に地味な取り組みであり、「役にたってる!」というリアルで劇的な感動はないものを、諦めずに淡々と積み上げていってようやく上がるもの、それが免疫力であると思っている。

簡単に免疫力が上がるんなら、誰も悩まないんだぞ!

自分自身もかつて原因不明の体調不良で苦しみ、検査ではなにごとも無いため精神的な問題とされ、しかしその苦痛から逃れ出る術は教えられず、溺れる中で藁にも縋るつもりで手を出したのがヨーガだったわけで、「いったいどうしたらほんとうに楽になれるのか」を考え抜いてようやく今ここに辿り着いた、という感覚なのだ。
だから、単に体操をするという側面からヨーガを見られると大変悔しい。

今、この場面において、多くの人にとって免疫を活性させる特効薬があるとすれば、「先々の不安を減らす」ことに尽きる。

ヨーガ教師としては個々の方の真の健康に向き合いつつ、私たちが生きる場であるこの国というものの舵取りにも真っ当な怒りを向けていきたい。
その悩みは、実は個人的なものではない可能性があるからだ。

とは言え、黙って弱るのは悔しい。個人としても最大限抵抗したい。
免疫力を上げるために最も大事なこと、それは「クヨクヨ考えない」ということ。

その為に瞑想(マインドフルネス)は役に立つだろう。
しかし、ただ座るだけで思考が鎮まるわけではないので、呼吸を整えると良い。

呼吸を整えるには、身体を調えるのが手っ取り早い。
全身を動かしつつ、呼吸を調え、心を調え、雑念が浮かびにくい状態を作っていく。

呼吸を整えるための動きにはちょっとしたコツがある。
仰向けになって練習するとやりやすい。手をお腹に添えて、呼吸と共にお腹を動かしてみて欲しい。細かい着意はたくさんあるが、まずはこれでかなり差が出る。

最後にもう一つ。
皆さん無意識に息を止めていることがあるので、吐くときにハミングしてみて下さい。
そのまま「ブラーマリー」という調気法になります。

№332 形ではなく

「実習はどれくらいやったらいいですか?」というご質問をお受けすることが多い。
今より1分でも多かったら、まずはそれで良いと思う。1か0なら1の方が良い。

何分、何回という指標は確かに分かりやすいのだが、内的感覚を感じることができなくなっているから、数的指標でしか進歩を測れないという問題点を内包しているかもしれない。

毎日3分座るといいですよ、という提言は、1か0かということでなら十分だろうが、では3分かけてどのような内的状態に達し得たのかを、自分が感じることがとても大事なので、何よりも「感じる」ことを大切にして欲しいと思う。

呼吸法に取り組む方法として、吸うことと吐くことを1:2で行うことがある。マントラを用いて「ソーハム」と唱えながら行うこともあるが、数でカウントするよりもこちらの方が自然に感じるし、そのまま自然な呼吸を数える数息観がいいかもしれない。4吸って、15止めて、8で吐く、と聞くとなんだか息苦しくなってくるような気がするのは、私だけだろうか。

心身が別々のものであるかのように扱われていることに、私はとても危機感を感じる。
心とからだが別々ならまだいいのかもしれず、私自身とその肉体が別々の存在のような感覚の人が実は多いのではないか。
自分の肉体をどう扱ったらいいのかがわからないのは、内声を聴く習慣を持たず、内的な感覚を感じ取る練習をする機会を与えられてこなかったせいだろう。

まず「自分はどうしたいか」を、選択する練習を知稲佐ことからやってみたらどうですかと申し上げている。
日常生活の中で「どうする?」とか「どっちがいい?」と聞かれる瞬間は案外多いのではないだろうか。絶対にこれでないと嫌です!などと言って人と喧嘩するような人は、そもそもヨガのようなアプローチはまだるっこしいと思ってやって来られないので、謙虚に、人を優先して「いえ、どちらでもけっこうです」とか「お好きな方で」と言い続けてきた方に対する提案である。

右の丸いチョコレートと、左の四角いチョコレートのどちらがいいですか?という単純な問いに対しても、自分という存在が、今、何を求めているのかを知る機会にして頂き、「今この瞬間に、私の全存在が右側の丸いチョコレートを欲している!(たぶん)」と覚悟を決めて選ぶという実験をしてみて頂きたい。数日後に、何かしらの心的な変化が起こっているかもしれない。

形や回数にこだわらない心を持ちながら、ある形(ポーズ)を取る中で、またはある呼吸を繰り返す中で、自分自身がこれまで感じて来なかった新しい感覚に気付くことができるかについて、ヒントを与え続けられるような教師でいたい。
そして、ヨガでなくても、様々な活動のなかで、心身も、天と自分自身も統合されていると思えるようになってほしい。
教師として単に手法を教えることに堕してしまうようなことがあれば、私は潔くこの業界を去ろうと思う。

№331 答えのない問い

しばらく前にしまださんから与えられた問いに、答えが出た気がする。
険しい山中で修行三昧に生きる行者さんは幸せなのか?という問い。

数日前、仲間が集まって開催している読書会に、著者の方をお招きしてなんでも質問できるという贅沢な時間を持つことができた。ご厚意で参加して下さった著者の鈴木先生に大感謝である(あえて“先生”と呼ぶのは、私にとって愛の表現みたいなものなので許して欲しい)。

 

 
感染症のことがなければ、オンラインでこの読書会が行われたかどうかわからない。
オンライン飲み会の時に盛り上がり、勢いで立ち上がった読書会だから。そしてこんな状況でなければ、先生はわざわざ参加してくれなかったような気がする(代わりに、リアルな出版イベントが開催されていただろう)。

数名の参加者がそれぞれ活発に問いを発し、様々な示唆を頂いた。
どの質問にも答えなんてない。これからどうしていくのがいいのか、自分の悩みの方向性は間違っていないか…。どの問いにも非常に真摯にお答え頂き、この方の人としての器量と愛を改めて感じさせられた。しみじみと私はこの方が好きだ。やり取りをした晩、夢に見てしまうほどに。

現在の状況の中で、世界をこれまでと同じように見ることができなくなった。
これは悪い面ばかりではないと思う。これまで全く知らなかったこと、興味を持てなかったことに対しても意識を向け、積極的に調べたり本を読んだりしている。届く本のジャンルはこれまでとはガラリと変わって多様性を増している。そしてますます世界は違って見えてくる。自分の無知が恥ずかしさを通り越して恐ろしく、馬鹿でいるからこそこの世がなんとなく楽しげに見えていただけだとわかった。

今の私は世界に軽く絶望している。
同時に、今、確かに生きているこの世界に対して、完全に絶望したりできない。
これまでに何度も、自分のことが森の木の樹洞のなかで惰眠を貪っている栗鼠かなにかのように感じられることがあったが、感じもなにもまさにそのとおりであったし、もしかすると、実際に森に生きる栗鼠以上にお目出度い生物だったのかもしれない。厳しい自然と、素のままで共存する栗鼠に謝らなくてはならない。

冒頭の問いの話に戻ると、山の中に籠ってしまう選択をした行者さんの絶望感を私は想像し得ていなかった。最も深い眠りのなかでのみ現前するものこそが真のリアルである、という言葉は、起きて見ている世界が、教えのなかで示され、私たちが目指すべきとされている善とあまりにも乖離しているということを暗に表現しているのではないだろうか。

この世はすべて迷妄である、ということは、単に哲学的な言葉なのか。それとも過酷な現実を前にしての魂の叫びなのか。今の私は後者のような気がしてならない(数年後には違う理解に至っているのかもしれないが)。

そして、カルマ・ヨーガの意味するものも、なんとなく理解できたような気がする。
「無為になるな。汝の為すべきことをなせ。」とクリシュナ神は言う。
そして、自らが為そう、と決めたことが山に籠ることだったとしても、世俗の中で闘うように生きることだったとしても、どちらでもいいはずだ。

この世に絶望しても無為になるな、という教えをもカルマ・ヨーガは示しているのだとすると、以前にも増して「バガヴァット・ギーター」を、現代の自分なりの視点で改めて読み解こうとすることが大事になると感じている。何か別の媒体を使って、かつて救われたと感じたことのあるこの書籍について、誰かに向けて語ることを始めてみたい。

自分がどれほど無知で愚かかわかってくると、身が竦む。足が震えるようだ。
自分にできることなど何一つないような気持ちになる。でも、こんな私でも、これまで自分が見聞きし、取り組んできた事々から何かしらの真実を受け取ってきた。そして救われた。この真実は他の誰かの役に立つのだろうか?立たないかもしれない。
でも、もし、たった一人だけにだとしても役に立つのだとしたら?
だから私は何とか自分を奮い立たせて、バガヴァット・ギーターの言葉に従おうと思っているのだ。

読書会後の鈴木先生のブログに大いに力を頂いたので、忘れないようここに記録しておく。
http://norio001.integraljapan.net/?eid=358

私も、答えの無い問いと格闘できる人間になりたい。山に籠っても、籠らなくても。

№330 色々間違ってる?

ヨーガの体操は、ストレッチと同義だと思っておいでの方が多い。

確かにヨーガ・アーサナで体はしなやかになるが、ストレッチでそうなるというのは間違い。正しくはアイソメトリック的効果が生じ、柔軟性が増すだけでなく筋力も向上している。

もう一つ。
これは前にも書いたような気がするが、ヨーガでは物事を客観的に見ることを重視するが、その前により重要な取り組みがある。「意識化」である。


今のこのような状況で、私のようなヨーガ・セラピストがどんなお役に立てることのだろうか悩むが、ヨーガ4000年の歴史の中で、絶望的な状況の中でも信念を貫き、より善い生き方を自分自身のうちにだけ探し求めるのでなく、世界にも影響を与えたマハートマ・ガンディー翁のようなヨーガ行者もおられた訳だから、私もできることを少しずつ続けていきたい。


ガンディーがヨガ行者?、と思われる方もあるかもしれない。
マハートマ・ガンディーは、「バガヴァット・ギーター」を座右の書としてその人生を歩んだカルマ・ヨーガ行者である。カルマという言葉は「業」という意味もあるが、ここでは「行為・行動」を意味する。自らの行動を神に捧げる「行為のヨーガ」、これがカルマ・ヨーガだ。

王道のヨーガというものがあり、「ラージャ・ヨーガ」と呼ばれる。
ちなみに私が学んでいるのは、このラージャ・ヨーガだ。
カルマ(行動)、バクティ(信じること)、ギヤーナ(哲学的理解)という三つのヨーガ行を水平的に行うと共に、八支則という階梯を通じて垂直的な成長も希求する。ラージャ・ヨーガ行の中では、ハタ・ヨーガ(いわゆる体操)は本流ではなく道具の一つである。

ヨーガは人間発達の道であり、自分のことしか考えることのできない獣のような人間から、生きとし生けるもののことを我がこととして考え得る人間へと、進化することを目指す。結果として、マハートマ・ガンディー翁のような人が生まれる。

インドでは、父から子へとヨーガが伝えられる。
10歳頃になると、体操を含めたヨーガ行を親御さんから直々に教えられるそうだ。ちなみに、それ以前の年齢の子供にはポーズも含めて指導しない
なぜなら、心身の発達が未熟な段階でヨーガの体操を行うと、心身発達の害になるからだ。

体操実践が十分に出来ないうちに、調気法(呼吸実践)や瞑想ができないことも分かっていて欲しい。例えば、食実践に工夫をせずにヨーガ・アーサナを行うと、腸を傷つけることがあるし、毎日、肉をモリモリ食べていて善性にはなりえないだろうから、瞑想は初歩的な段階に留まってしまうだろう。心身は一つなのだ。

何事にも順序というものがある。間違えれば危険があることは伝統の中で伝わってきているのだが、現代のヨーガ教育の中で十分にその情報が共有されているかどうかは大いに不安が残る。

ヨーガが体操、しかもストレッチという誤解を抱いたままだと、色んなことが見えなくなるから要注意。

 

 

№329 それはyogaなのか?

“yoga”をしよう、と生徒さんに言うとき、その意味するところは「あなた自身のからだの中にいながら安心を感じよう」ということになる。

何年もずっと口を酸っぱくして言ってきているが、「ああ、わたしはだいじょうぶだ」という心地にならないんだったら、それはyogaではない。ただの体操である。

生きていると様々なことがあるので、家でひとりでいるのに、いつかのなにかに追い立てられるような気持ちになったり、目の前にいない誰かの声が聴こえてくるような気持ちで生きている人がとても多い。そのことに”ストレス“という名前がついている。

ストレスは単なる負荷であって、ほんとうは悪者ではないのに、いちゃいけない害虫のように思われている。負荷のない人生で、人は成長なんてできないのに。

”ストレス“フルな生活が続くと、ほんとうに病気になってしまう。
原因はそこにはないのに、痛いところや辛いところが悪者にされてしまう。
腰痛ですねとか、膵炎ですね、とか。

ほとんどの人が、いつも、あたまのなかで何かを考えている。
スイッチがどこかわからなくなって、電源も切れないし音量も下げられないラジオみたいに。ラジオをそのまま外に投げ捨てて、壊してしまいたくなっても不思議じゃない。

yogaと同じ誤解が、瞑想(マインドフルネスといってもいい)にも起こっている。
1日10分坐って、残りの23時間50分が思考まみれで、睡眠も気持ちよく取れないようなら、その瞑想はいったいどんな意味があるの?

欲張りで、面倒くさがりだからyogaをやっている。
痛いのも辛いのも、気持ち悪いのも嫌だから、ほんの少しだけがんばってみてもいいかなと思うし、終わったあと、いつもとても気持ちよくなるから。

アサナ(asana : yogaの身体的実践のこと)をしているとき、どんなに心を鎮めて自分のからだの細部に意識を向けているか、外からは決して見えない。
ほんの僅かに力を加えるだけで、脂汗が出るような感覚を得ていることも見えない。肉体の反応につられずに、呼吸を平静に保とうとしているとき、思考が入りこむ隙はまったくないことも、外からはわからない。
だから、外から見た何かを手本にしてyogaを学ぶことはできないと思う。
そんなことをすると誤解が生まれてしまう。poseという誤解。

asanaをしていないときも、あたまのなかに言葉がめぐることはない。
リフレクションをするとき、こうやってブログを書くとき、本を読むとき、メールに対応するとき、言葉は湧いてくる。そうでないとき、波立たない水面のように心は鎮まっている。そこに時折、木の葉が舞い降りてきたりするけれど、ただそれだけ。

かつて自分の頭のなかは騒音だらけ、身体は不調だらけだった。
約10年かけてこの静けさを手に入れて、同じ体験を人にもして欲しいとつよく思っている。
なぜって、自分に出来たということは、他の誰にでもできるからだ。

10年は長いだろうか?
もし今、あなたが静けさを手に入れようと決めたら、10年後には私と同じことを思っている。この言葉が嘘でない事を理解できる。これまで一緒にyogaをして、途中で諦めなかった方々は10年を待たずにそうなっている。その体験をしてもらうこと、理解してもらうことがyoga教師としての私の仕事だからだ。asanaを教えることが仕事なんじゃない。それは絶対に違う。

でも「10年かけるなんていやだな」と思って試すことを諦めてしまったら、たぶん10年後も今と同じことで悩んでいるか、今よりももう少し事態は複雑になっている。

10年が長いことは私もわかっている。
それでも、今になにか悩ましいことがあるのなら、違う10年後を見ましょうといいたい。価値のある10年だったと語るとき、ほんとうに嬉しいから。

10年かけていいと思ってきたから、そんなに難しくなかったのかもしれない。
私はそんなに賢くないから、時間だけが味方だった。時間をかけることと身体的実践は、私を決して裏切らなかった。たぶん他の誰のことも裏切らない。

yogaと呼ばれる実践方法が長く伝わる理由は、そこにあると思っている。
目を閉じて。感じて。
10年と言われたことも忘れて、今ここでこうしていることだけに意識を向けて。
そうするとき、私は永遠に存在しているのと同じ。そして同時に、一度も生まれたことがなかったような気もする。

ああ、自分はだいじょうぶなんだと思えること、それを”sukka“という。
苦のない状態のことを表現する言葉だ。
生きていて、いつでも大丈夫なんだと思えるようになるために、yogaという実践がある。
決して誤解しないで欲しい。
Asanaに意味はない。あなたのsukkaにこそ意味がある。

№328 身体というシャドウ

今日、日々内省のために書き連ねているリフレクション・ジャーナルが、6冊目に入った。混乱したり悩んだりしている時にこのノートと向かい合うことで、これからも助けられると思う。
しかし、このノート達は、私が死んだあとはいったいどうなるのであろうか。そして死ぬとき、ノートは何冊になっているのだろうか。

さて、今日はある方と約4年ぶり?にお話をさせて頂いた。
加藤ゼミ「卓越性の研究」の同窓生のの方で、リアルにお会いしたことはたったの一度。ゼミの同窓会を、神楽坂の豚肉料理店・シャ豚ブリアンで開催した時にお会いした。なつかしいなあ。

そして本日のこの対話が行われたのも、加藤先生のお蔭様である。メールを差し上げようかとも考えたが、先生の日々の静謐さを阻害したくないのでここでお礼を申し上げることにしたい。ありがとうございました!


さて、心身の統合は非常に大事である。

という表現をすると、「いったいなんのこっちゃ」と思われる方もおいでになるだろう。

ではここで質問。
あなたは、あなたの肉体を完全に自分のものだと感じ、肉体をもって生きていることに絶対的な安心感と至福を感じていますか?

私自身のことを語らせてもらえるならば、15年ほど前の私は肉体という地獄に捉われていた。なぜこんなに苦しいのかと。なんの病気も無いのになぜ。
例えば、耳を取り外してその穴の奥までブラシでごしごし洗ったり、目の玉を外して裏側に目薬を差したいと思う人は、かつての私以外にもいるはずだ。この脳みそをもっと賢いものと取り替えたいとか。

どこかに不調が現れたとき、あなたは新しい新鮮な、そして性能の良いなにかと、自分の“部分”を取り換えたいと願うだろうか(こんなふうでなければいいのに、と感じるのは病だとyogaでは言う)。
音楽を聴くとき、音を皮膚で感じるだろうか。体の中心に音が響くことに気付いているだろうか。隣にいるある人のお蔭で、口にするなにかが最高においしいものに感じられたりすることに気付くだろうか。
昨日と今日の自分の身体の違いを感じて、日々の営みを少し加減してみたりしているだろうか…

心と体にズレがある時、人はきっと腹の底では気付いている。なんだかヘンだとわかっている。
でもそれを外界の事物に投影したりして、自分のものでないことにしてしまっている。

シャドウワークの重要性を感じている人は多いと思うけれど、実は身体そのものが大きなシャドウと化しているのではないかと、今日対話の中で感じたのだ。

なぜあの優秀な人が、自分の身体を機械かなにかのように扱うのかと不思議に思うことがあった。逆に、言葉が理性と肉体のマリアージュのように魅力的に発せられ、こちらの心身を痺れさせる人もいる(たくさんはいない)。

心と肉体がぴたりと一致して生きる安心感を、もっと多くの人に味わってほしいと思う。それはなにかの薬を飲めば達成されるようなことではなく、時間と少しの努力を要することだけれども、その取り組みを行ってみれば必ず気付くはずだ。
肉体があるからこそ、苦しみや困難があったとしてもなお、喜びや満足を感じることができるのだと。

ヴェーダでは、この肉体はアートマンの馬車に例えられる。
私は今生、この馬車でやっていく。この車は軽自動車か、最高級のセダンなのか、それとも夢の乗り物か。たぶん、すべて自分で決めることができる。いつからでも変えることができる。

その性能や乗り心地を、決して外からの見た目で評価してはならない。
そんなことをすると重大な間違いが生じたり、落とし穴に落ちたりする。
はりぼてのように外面だけが素敵な乗り物でなく、ドアを閉じてそっとシートに身を委ねると、感極まって背筋に電流が流れるような、そんな乗り物に乗って生きたい。そんな乗り物として、誰かと一緒に活動したい。

そのために身体的実践はある。

人生は決して安定しない。胸を掻きむしられるように苦しいこともある。
それでもあなたがその肉体の中で生きることで、「自分は確かに守られており、安全である」と感じることは可能だ。あなたの身体の実践がまだその感覚をもたらしていないのならば、肉体を持って生きることの凄さに、まだ気付けていないだけかもしれない。

人が心身の統合を遂げることができれば、原因不明の慢性病などは減っていくはずだ。だから一人ひとりが自分の身体と向き合うことは、次世代の医療へとつながっていく。

あなただけが、あなたという存在の権威なのだから、どんな判断も人に預けずにすべてあなたが決めて欲しい。
きっとできるから、諦めないで。