蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№329 それはyogaなのか?

“yoga”をしよう、と生徒さんに言うとき、その意味するところは「あなた自身のからだの中にいながら安心を感じよう」ということになる。

何年もずっと口を酸っぱくして言ってきているが、「ああ、わたしはだいじょうぶだ」という心地にならないんだったら、それはyogaではない。ただの体操である。

生きていると様々なことがあるので、家でひとりでいるのに、いつかのなにかに追い立てられるような気持ちになったり、目の前にいない誰かの声が聴こえてくるような気持ちで生きている人がとても多い。そのことに”ストレス“という名前がついている。

ストレスは単なる負荷であって、ほんとうは悪者ではないのに、いちゃいけない害虫のように思われている。負荷のない人生で、人は成長なんてできないのに。

”ストレス“フルな生活が続くと、ほんとうに病気になってしまう。
原因はそこにはないのに、痛いところや辛いところが悪者にされてしまう。
腰痛ですねとか、膵炎ですね、とか。

ほとんどの人が、いつも、あたまのなかで何かを考えている。
スイッチがどこかわからなくなって、電源も切れないし音量も下げられないラジオみたいに。ラジオをそのまま外に投げ捨てて、壊してしまいたくなっても不思議じゃない。

yogaと同じ誤解が、瞑想(マインドフルネスといってもいい)にも起こっている。
1日10分坐って、残りの23時間50分が思考まみれで、睡眠も気持ちよく取れないようなら、その瞑想はいったいどんな意味があるの?

欲張りで、面倒くさがりだからyogaをやっている。
痛いのも辛いのも、気持ち悪いのも嫌だから、ほんの少しだけがんばってみてもいいかなと思うし、終わったあと、いつもとても気持ちよくなるから。

アサナ(asana : yogaの身体的実践のこと)をしているとき、どんなに心を鎮めて自分のからだの細部に意識を向けているか、外からは決して見えない。
ほんの僅かに力を加えるだけで、脂汗が出るような感覚を得ていることも見えない。肉体の反応につられずに、呼吸を平静に保とうとしているとき、思考が入りこむ隙はまったくないことも、外からはわからない。
だから、外から見た何かを手本にしてyogaを学ぶことはできないと思う。
そんなことをすると誤解が生まれてしまう。poseという誤解。

asanaをしていないときも、あたまのなかに言葉がめぐることはない。
リフレクションをするとき、こうやってブログを書くとき、本を読むとき、メールに対応するとき、言葉は湧いてくる。そうでないとき、波立たない水面のように心は鎮まっている。そこに時折、木の葉が舞い降りてきたりするけれど、ただそれだけ。

かつて自分の頭のなかは騒音だらけ、身体は不調だらけだった。
約10年かけてこの静けさを手に入れて、同じ体験を人にもして欲しいとつよく思っている。
なぜって、自分に出来たということは、他の誰にでもできるからだ。

10年は長いだろうか?
もし今、あなたが静けさを手に入れようと決めたら、10年後には私と同じことを思っている。この言葉が嘘でない事を理解できる。これまで一緒にyogaをして、途中で諦めなかった方々は10年を待たずにそうなっている。その体験をしてもらうこと、理解してもらうことがyoga教師としての私の仕事だからだ。asanaを教えることが仕事なんじゃない。それは絶対に違う。

でも「10年かけるなんていやだな」と思って試すことを諦めてしまったら、たぶん10年後も今と同じことで悩んでいるか、今よりももう少し事態は複雑になっている。

10年が長いことは私もわかっている。
それでも、今になにか悩ましいことがあるのなら、違う10年後を見ましょうといいたい。価値のある10年だったと語るとき、ほんとうに嬉しいから。

10年かけていいと思ってきたから、そんなに難しくなかったのかもしれない。
私はそんなに賢くないから、時間だけが味方だった。時間をかけることと身体的実践は、私を決して裏切らなかった。たぶん他の誰のことも裏切らない。

yogaと呼ばれる実践方法が長く伝わる理由は、そこにあると思っている。
目を閉じて。感じて。
10年と言われたことも忘れて、今ここでこうしていることだけに意識を向けて。
そうするとき、私は永遠に存在しているのと同じ。そして同時に、一度も生まれたことがなかったような気もする。

ああ、自分はだいじょうぶなんだと思えること、それを”sukka“という。
苦のない状態のことを表現する言葉だ。
生きていて、いつでも大丈夫なんだと思えるようになるために、yogaという実践がある。
決して誤解しないで欲しい。
Asanaに意味はない。あなたのsukkaにこそ意味がある。