蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№327 現れのひとつ

 

久々に再会した方が、「今は陰謀論を信じている」と言った。
常々、その方が語ることに刺激を受けてきたので、これは数冊本でも読んでみるかなと思ったが、なかなかこれというものに出会うことができなかった。これは数か月前の話。

今、感染症の影響で、様々な事が大いに変化を遂げつつあるなか、自分自身ものの見方が揺さぶられて、既存の枠組みが確固たるものではないことを確信しつつある。
過去に「これは読んでおいた方がいい」と言われ背伸びして読んだ書籍の中で出会った事々が、今、現に目の前で起きているような気がする。

私たちが携わる分野は、オルタナティブメディスンと呼ばれる。
ナチュラルでなんだかよさげに聴こえるだろうか? でも、オルタナティブは何かの代わりということだから、本当はこんな名称で呼ばれたくない。

これまで知らなかったのだが、報道の世界にもオルタナティブと呼ばれる人たちがいるそうだ。この世界は、平凡に暮らす私たちがほんとうに知りたい情報が平気で消されたりするところだった。

この数日、色んなことを自分で調べてみた。きっかけはある人の言葉だったり、また別の人が教えてくれた映画だったりする。
とんでもない!と思うことから、これはあり得るかも…と思うことまで、インターネットの広大な海の中の、日本語で入手できる狭い世界で、私からするとアッと驚くようなことが語られており、今私が知ってアッ!と言っていることを数年前から語っている人もいる。

すべてのことに、割合は違えど真実が含まれている。答えがないことに対して、私たちはどのように自分の態度を決めていけば良いのであろうか。

昨晩は、この世界で自分ができることが一瞬見えなくなったような気がしたのだが、今日は世界の枠組みが揺らいで見えたことに感謝している。きっとこれは瞑想みたいなものなんだ。これまでまったく見えなかったものが、目の前に立ち現れてくるという経験は。

明日のオンラインでのレッスンのために、ウィルバーの「存在することのシンプルな感覚」を取り出して読んでその文章に癒され、今こういう時だからこそ、私は非二元を大事にしたいと強く感じた。

 

常に、既に現前しているのだから、この数日に私が目にしたもの、聞いたものもスピリットの現れの一つなんだと、そう思うこととそれを伝えることしか、私にはできない。
だからどうしても世界に向けて語りたいことを、淡々と語っていくしかない。決して出会うことのないひとが、たったひとりだけでも聴いていてくれるかもしれないと信じて。


「冷たい水晶のような透明な夜、月が静かに大地を照らす。そこにいるものに、すべては遊びであることを思い出させるために。月の光が眠っているハートの夢に火をつける。そして、夜の深みのなかから、あなたを起こそうとする。あなたは、もっとも単純な祈りに答える。あなたは、今、ここに自分を見出し、いったい、すべてにどんな意味があるのかを考える。その時、あなたは、気が付く。そして、すべては解きほぐされる。やがて、あなたは月として身を起こし、月の夢を自分の心のなかで歌う。あなたは大地として身を起こし、その祝福されるべき住民たちに栄光を与える。やがてあなたは太陽それ自身として身を起こす。無限に輝いて、あまりにも明白な太陽として。この原初の純粋な「一味(ワン・テイスト)」に始まりはなく、終わりもない。入り口もなければ、出口もない。不生不滅。すべてはただあるがままである。はるかに響く滝の音だけが残って、この物語を語る。この水晶のように冷たく、透明な夜に、かくも美しい月の光を浴びて歌う滝の音が、すべては、あるがまま、あるがままと語る。
 偉大な禅の老師の法常が死ぬ時、リスが屋根の上で鳴いた。老師は言った。
『まさにこれである、それ以外のものではない。』」

―「存在することのシンプルな感覚」第9章より引用
 ケン・ウィルバー/松永太郎訳 春秋社2005
 

 

№326 全体性へと帰る

いま、白隠禅師にハマっている。
「軟蘇の法」というのをお聴きになったことがある方もおられると思うが、修行を志す者に心身のケア技法を書き残し、後世の修行僧を救ったと言われる。心身を置き去りにした修行の危険性を白隠禅師は伝えてくれたが、残念なことにあまり知られていないようだ。

 

ストレスによって心身が悪影響を受けることは広く知られている。
ある症状に悩んで通院したところ、どこも悪くないですよとか、ストレスじゃないですかと言われて立腹した経験のある方は多いのではないだろうか。私ももちろん言われたことがある。そのとき「じゃあストレスってなんやねん!」と思ったものだ。

ストレスとは、1936年に生理学者ハンス・セリエが定義した「外部環境からの刺激によって起こる歪みに対する非特異的反応」のこと。
「ストレスを引き起こす外部環境からの刺激」をストレッサーという。

 

ストレッサーとして、4つの分類がある。

1.物理的ストレッサー:寒冷、騒音、放射線など

2.化学的ストレッサー酵素、薬物、化学物質など

3.生物的ストレッサー:炎症、感染、カビなど

4.心理的ストレッサー:怒り、緊張、不安、喪失など

 

ストレスのことをわかろうとすると、ホメオスタシスについて知っておかないといけない。そうでないと「非特異的反応」という言葉の意味がさっぱりわからない。内部環境を一定の状態に保ちつづけようとする傾向のことを、ホメオスタシスという。生物だけでなく、鉱物でもある働きだそうだ(ちょっとびっくり)。
生きものが生きものとして生存するために、一定の決まりがあって、その決まった状態に戻ろう、戻ろうとする働きのこと。この決まりの中で基本的に体は仕事をして、健康を保ってくれているわけだ。

ストレスがただそれだけで悪いわけではないのだけれど、それに対する反応として、本来あるべき”普通“の状態が崩れると、非特異的反応なる“普通”ではない反応が引き起こされる。これがストレス反応。

ストレス反応というのは、本来長く続くものではない、という想定の下に起こる。
あなたが家の中でいつもどおりに過ごしていたら、窓に何やらぶつかった音がしたのでふと目を上げると〇〇(*一番会いたくないいきものの名前をいれてください)がいて、こっちをジロリと見つめていた。
ギャー!と叫んであなたはその部屋を飛び出て、安全だと思える場所へ避難する。
隠れてゼエゼエハアハア言いながら、「なぜあんなものがあんなところに…」と考える余裕が生まれると、大きく息を吐きだせるようになる。しばらく間をおいて元の部屋に戻っても、そこには〇〇の気配もない。「ああ、良かった…」と感じながら、あなたは体からスーッと力が抜ける心地がする。

ストレスって本来そういうものであって、一時的であることを想定されて、ちょっと普通じゃないことに対処するようにできている。しばらく経つと、ストレス反応は止まり、楽な状態に戻るはず。この、ちょっと普通じゃないことというのは「自分が安心できないこと」と言いかえてもらってもよい。

なので、
①何に対してストレスを感じているのか
②その結果心身にどのような影響が出ているのか
③その影響を無くすためにはどうしたらいいのか
という3点を、まず考えなければならないことになる。
ここでいう②のことを「ストレス反応」という。みんな、②をどうしようかと悩まれているわけである。

ヨーガは体操だという残念なレッテルを貼られているので、ストレス反応としての痛みや症状をなんとかできるポーズありませんか?と聞かれるわけだが、本来ヨーガ的なアプローチが行っているのは、①に対してストレスを感じなくなる自分を育てるために、②のストレス反応は重要なきっかけを作ってくれたものと考える。
次に〇〇がやって来ても、こちらからジロリと睨み返せるようになるのが、ヨーガのめざすところ。

さて、ストレス反応が起きた時のからだはどうなっているか?
心臓はバクバクして、脈が速くなる。息は止まったり、浅く速くなる。走って逃げだすために血糖値は上がり、血圧が上がり、筋肉に血が流れ込む。消化活動は止まる。危機的状況なので、こんな時に、治癒とか消化・吸収とかできないことは想像できると思う。

これは「闘うか、逃げるか」の反応と言われることが多いけれど、「その場で凍り付く」という反応もある。これが一番怖い。トラウマとなって後々まで苦しめられてしまう。

このストレス反応と真逆なのが「リラクセーション反応」
ハーヴァード大学で、当時循環器内科医だったベンソン博士が行った研究をもとに名付けられた。
無症状なのに心臓病になってしまう高血圧症の患者さんに対する疑問から、ストレスと血圧上昇の関連について注目したベンソン博士は、超越瞑想の実践者との研究に踏み切る。1970年代のことで、異端な人たちと関わり合いになるのは抵抗があったし、研究は隠れてやったんだと言っておられた(時代は変わったなあ)。

ラクゼーションの練習をすると、ストレス反応を解除することができる。
でもおかしいとおもいませんか。
本来ストレス反応は一時的なものなのに、なぜわざわざリラクゼーションを練習しないといけないのか?

問題は、現代のストレスが「思考」に由来するということ。
頭のなかの仕事や上司は、いつでもどこでも一緒で離れることができない。コロナに関連した心配事は引きも切らない。一体この先どうなってしまうのか、考えても答えなどない。
このような思考の下に常時ストレス反応が起き続けているのだ。この結果、ストレス性疾患という病態が発現する。
感染症の影で、ストレス性疾患の種がまき続けれらていることを、私はとても危惧している。

ストレス対処のためには、なにか新しい活動をするだけでなく、その手法を用いて、頭のなかに浮かぶことの質を変え、最終的には思考事態が減っていくようにする必要がある。
この点を十分にわかっていないと、やったときに楽になるだけの依存的なものになる。

ベンソン博士の果たされた仕事の偉大さは、毎日20分やらないと、毎日のストレス反応の悪影響をなしにできませんよ、ということを明確にしたことだと思う。
でもここでもう一歩踏み込みたい。
実践を行っていくと、そもそもぐるぐる思考は浮かばなくなっていくし、自分にとってストレス反応を生じさせる生き方自体について改めて考えていくことになる。これが、全体性を目指す生き方だと思う。

ベンソン博士はすごいと思うけれど、「じゃあ毎日20分やれば、もっと働いても大丈夫だよね!」という方向性で使われているような気がしてならない。
それでは、自分のなかの何かが置き去りにされたままになるような気がする。
それが哀しい。

 

 

№325 呼吸から安心感に至る

呼吸と免疫のことについて書こうかなあと思っていたのだが、免疫力というのは肉体の防衛機能であって、人間存在が持つ力の一部でしかないと思った。

数値で証明できるものだけを礼賛する風潮を、ウィルバーは「フラットランド」と表現したが、健康か病気かということが西洋医学的に判断されることの多い現代において、目に見えない健康を保ち、更なる健康を求めるには少々工夫がいるようだ。

免疫力が高いかどうかを、どうやって判断することができるだろうか?
そもそも健康であるとはどういう状態だろうか?

肉体に病気が見つかっていないだけで「健康」というのは少々心もとない。
漢方では「未病」という概念があるが、実際に検査や数値に異常が出て明確に病気と判断できる以前に、「まだ病気ではないが決して健康ではない」という状態がある。免疫力が低いとは、この未病の状態ということができるだろう。
単に体質だと思っている軽い症状もこの未病の現れであることが多い。アーユルヴェーダや漢方などの伝統的な医療は、病以前の病態に関する多くの智慧を持っている。

検査等で何も異常は見つからないのに健康ではないという人は、何かしら本人に悩みがあるものだ。あなたが何か悩んで、苦しみを抱えているなら、それは病である。病として、適切に治療やケアが為されなければならない。大したことないのに、などという他者の言葉に耳を貸してはいけない。あなたはあなたの感覚を大事にしなくてはならない。

また、本人が悩んでいなくても、身近な周囲の人が悩んでいれば、それは健康とは言えない(社会的な健康、という概念)。

ヨーガと呼ばれる実践が目指すのは全人的な健康であって、肉体の健康だけでない。
全人的な健康を目指す過程で、結果的に肉体も健やかになるということだ。

この全人的な健康を目指すには、肉体からのアプローチがとても便利だ。
ここで少し免疫のことにも触れておくと、人間の免疫機能の多くは腸が担っている。腸には数多くの細菌が共生してくれていて、私たち人間が生きる上で必要な多くの働きを行ってくれている。心理的にストレスを感じて、破滅的な思考をすると、腸内細菌を痛めつけるような分子が出るという。体と心は怖しいほどに関連している。
健康を目指す伝統的な手法に、呼吸を置き去りにしたものは無いと思う。呼吸は肉体にも精神にも、大いにそしてダイレクトに影響を与えることができるからだ。

下腹部を動かすゆっくりとした呼吸を繰り返すと、横隔膜の上下運動に伴って内臓が動く。下腹部には迷走神経が走っており、腸から脳へ指令を送っている。浅く速い呼吸の場合は、横隔膜は上に上がってしまうため、この腹部のマッサージは起きない。

お腹と脳は関連して動いている(腸脳相関)。
お腹のゆったりした動きは脳へ信号を送り、「今、私は安全だ」ということを脳に認識させる。そして脳は、改めて内臓に対し、「安全な状況なので、消化や吸収、そして治癒に至る活動をしてもいいよ」と指令を出す。

あなたが意識的な呼吸の練習を行う時、自分の存在に対して「安心して健康になるための仕事をしてもいいよ」、とメッセージを発していることになる。

ストレスとは真逆のこの状態は、訓練でいつでもどこでも再現できるようになる。
外的刺激に応じてストレスが生じると思っている方が多いかもしれないが、そうではない。
どんなことが起きても、ゆったりとした呼吸を保てる人がいる。生まれつきの性質であったり、長年行ってきた武道などの取り組みがその要因になっている人もいるだろうが、後天的に身に付けることができる能力であることを忘れないで欲しい。

心配性だったり、落ち込みやすかったりして、自分のこんな性格を変えたいと思っている人は、騙されたと思って呼吸法を数か月学んでみることをお勧めする。
長い年月をかけて人体に対する効果が伝わっているのだから、あなただけが裏切られることはない。安心して大丈夫。

№324 呼吸の健康効果

皆さん、マスクをして過ごす時間が長くなっていることと思う。
鍼灸の先生との会話で、呼吸が普段から浅い方はマスク着用時に息苦しさを感じないようだとの話題が出た。

なので、マスクをしている状態に慣れるのが大変な人もいるだろうが、そういう方は普段の呼吸がしっかりできているのだから、自信を持たれると良いと思う。また、どちらの方も、自宅など安全な場所ではしっかりと深い呼吸を意識してほしい。

ヨーガではプラーナーヤーマという呼吸の実践があり、体操実習でも呼吸を大事にしている。普段から呼吸に関する何かしらの実践を行っていない方は、やはり呼吸が浅いようで、一説には、肺の上部三分の一しか使用していないと言われる。

ただでさえ呼吸が浅いところに更にマスク着用という条件が加わることで、呼吸のみならず心身両面の調和に悪影響が出る可能性があるので、今日はその点について語っておきたい。

 

ヒトは生きるために呼吸という活動を必要とする。
生まれた瞬間に自発呼吸が始まり、誰にも教えられずに呼吸という活動を行ってきたわけで、自分の呼吸というものを改めて意識することはあまりないかもしれない。

 

パタンジャリは「ヨーガ・スートラ」において、呼吸についてこう述べる。
Ⅰ-31 苦悩、落胆、手足の震え、荒い息遣いが、乱心の兆候である。

Ⅰ-34 息を吐き、息を止めることで、心身を清浄にさせる。

呼吸の早い遅いによって、心が乱れたり、落ちついたり、血流の流れが変わったりすることは、誰しも経験があるだろう。スートラの記述を見ると、昔からゆっくりと息を吐くことによる、心身への効果が理解され活用されてきた事がわかる。息を止めることに関しては、禁忌もあるので自己流ではやらないで欲しい。

呼吸がゆっくりと深く行われるということは、要するに腹式呼吸ということ。
呼吸の時に胴体は全方位に動くが、特に重要なのは下腹部、腰のあたり、そして肛門の辺りになる。

こういったお腹を動かす呼吸がなぜ心身両面にいいのか。3つの面がある。
1.横隔膜を下に下げて緊張させる
2.肺の内圧と腹圧を高める

3.横隔膜と腹部や内臓の機械的運動を行う

詳しく説明すると…

1.横隔膜の上下には脳脊髄神経系と交感神経系がきており、このふたつの神経系を連絡する迷走神経系が横隔膜をつらぬいて分布している。そのため、横隔膜を使った呼吸によりこの3つの神経系に刺激を与えることができる。
悲しみや驚きや怖れという感情により内臓に症状が生じると漢方では教えているが、これらの感情を抱くと横隔膜は上がってしまうそうだ(お腹を使った呼吸が出来なくなる)。呼吸に合わせて横隔膜の上下運動を行うことで、精神的な落ち着きを保ち、ひいては肉体的にも良い変化をもたらすことができる。

 

2.肺の圧力は大気圧とそれよりも低い陰圧のあいだを往復する。
肺の末端の肺胞で酸素は直に血液と触れるが、この肺胞内にて血中の炭酸ガスやその他の有機ガスと酸素を交換し、ヘモグロビンに酸素を固定させ、体内を循環させ、新陳代謝を引き起こす。

いかに多くの酸素を血液中へ固定させうるかが、健康に影響を与えることなる。
また腹圧も高められ、内臓を刺激することになる。

 

3.深い呼吸を行うと、下腹部の緊張と弛緩により腸壁及び内臓の機械的蠕動運動への影響が生じるだろう。呼吸に伴う動きが腸の働きを助けることになり、結果的に全身の血液循環を活性化させると思われる。
呼吸法の実践により、体温が上昇することはあまり知られていないように思うが、とても大事な効果だ。

難しいことはさておき、毎日一度でも、下腹部を意識的に動かす呼吸を実践して欲しい。

ポイントは、息を吸った時下腹部が膨らみ、腰の部分が床に押し下げられること、
そして吐くときに肛門を締めること。
吐く息の方を吸う息よりも長めにすることだ(少しでいい)。

仰向け、立膝の姿勢で行うと分かりやすいし、手をお腹に当てて動きを感じながら行うと良いだろう。上記の点に気を付けて行うことで、体幹部の筋肉を鍛える効果もある。また、目を閉じて、内面の感覚を感じながら、その瞬間の一息一息に集中して行うことで、瞑想で得られるポジティブな効果も体感できるはずだ。

№323 マインドフルネスの影

瞑想には色々な効果がある。
https://diamond.jp/articles/-/180610

「なまけものの健康法」で副作用もない、とのこと。まるでいいことばかりのように聞こえる。世界には成長・発達を礼賛する風潮が強くあり、その傾向に後押しされてマインドフルネス業界があるのだろう。

 

ところで、今日の政治の状況について、市民として正当な怒りを感じ、勇気をもってそれを発信している方々が多いことは素晴らしいと思う。誰しもなにがしか自分の意見を持っているはずで、それを発信する自由もあるはずだが、「批判するな」という主張も聴こえてくる。

ヨーガの世界で聖音とされる“AUM”という言葉がある(日本でいう「阿吽」)。
この音を唱えると、恐怖の感情にかかわる脳領域の活動が抑制されることが機能的MRI画像で確認されたそうだ(便利な世の中になったものだ)。
しかし、このAUMの言葉が意味する「すべてを受け容れる」という心を、曲解して使っている人もいるように思う。

今起きていることやそれに対する政府の対応に対して、「AUMの心ですべて受け容れます」と思うことももちろん自由。しかしそれは単なる思考停止ではないか。そのままに受け容れ、意識した上で現実的に行動せよ、とバガヴァットギーターでクリシュナ神も言っているではないか。

瞑想で成長できますよ、というだけでは、どんなものにも内在している影の部分を見過ごすことになるだろう。AUMの言葉に対する一面的な解釈もその一つのように思う。長い伝統のもとに受け継がれてきた行法には、諸刃の剣のような鋭さをもつものもあるから、活用にあたっては留意が必要だということに対して自覚を持って実践している人はどれほどいるだろうか。

 

日本でもマインドフルネスの実践を行っている人は一定数いるはずだ。確かに瞑想には効果がある。ヨーガ療法指導においても、瞑想を行うか否かでは主訴の改善に関して大きな差があると体験的にも感じているが、その指導は慎重に行われなければならない。

ヨーガでは段階を追って実習を行じていくので、身体的な実践抜きに瞑想を行う人はほとんどいないはずだ。また、ラージャ・ヨーガでは瞑想後の言語化を重要視しており、座りっぱなしにさせるような指導はしない。身体を軽視しないこと、行の結果生じた内的なものを言語として外の世界に表現することが、ヨーガ以外の瞑想指導では欠けているように見える。

伝統的な教えによると、ヨーガ実践はまず社会的な関わりにおける自分の心の在り様の意識化から始まり、次に浄化を含む身体の実践、そして呼吸を用いた気の調整へと至る。ここまでの実践を丁寧に行っていくと、いずれ感覚や感情の制御ができるようになっていることに気付く。そこからが本当の瞑想の始まりになるだろう。心身の統御が疎かな状態で、肉体よりもさらに精妙なエネルギーを扱うことはできないと教わって来たし、実体験からも確信している。また、心身の浄化が為されていない状態で精妙なエネルギーに触れると思わぬ障害が起きるともいうが、これも実感している。

日本の禅の実践では、初心者にも初めから厳しい座禅修行を課す形で修行が行われるそうだ。詳細はわからないので恐縮だが、新参の修行者がはケガをしたり体調を崩したりすると読んだ。 座禅の世界の長い経験の中で、そうした修行法のメリットやケアの方法を十分に蓄積しているのだろうと思う。

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)

 

 
この、真剣に禅の修行に向き合う人の中で起きる病を「禅病」といい、日本では白隠禅師が自身の体験からその対処法を教え伝えたため、多くの修行者を救ったと言われている。

では、現代のマインドフルネス実践者はどうか? 
万が一マインドフルネスによって障害が起きた時、適切に救済してくれる人はいるのか?

アメリカ的な考えによると、30年かかる修行でようやく手にすることのできる変化をなにがしかのツールを使って短縮できるそうだ。何らかの計測を用いて知ることのできる一部の指標においては「禅マスターになった!」と言えるのかもしれないが、人間存在の全体性としてはどうなのか。にわか禅マスターには、一片の影も生じないのか?

今、このアメリカ的な瞑想の捉え方の被害ともいえる、現代の禅病が蔓延しているのかもしれないと危惧している。
なぜ修行はゆっくりでなければならないか。個々の差や修行の進み具合が尊重されねばならないか。なぜ身体的な実践を疎かにしてはならないのか。今、改めて考え直す必要がある。

 

調子を崩せば多くの方は病院に行くだろうが、検査しても原因がわからない症状に対する対処法が「とりあえず」の投薬であれば、良かれと思ってなされたその治療が、更に人間に備わっている根源的な力を奪うことが想像できる。西洋医学はスピリチュアル・エマージェンシーに対処する術を持たないだろう。今も、これからも。

 

ここにある肉体を軽視して、精神の修行に手を出す勿れ。
そんな無謀なことをしていては、命がいくつあっても足らない。リアルな心身を尊重することなしに、健全な在りようは養われないはずだ。

№322 修行に生きるのはしあわせか?

昨晩、ゼミナール同窓生有志とのオンライン飲み会を開催した。
読書会を兼ねてと思っていたが、薄々予想していた通り無理だった。とは言え、話題は多彩に展開されていき、非常に有意義な時間となった。

 
会の中である質問を受けたのだが、その問いは私自身の専門性やどのようにこの専門を活用していくかの根幹に繋がる問いであって、その夜の眠りの中でずっと「私は相当興奮している」と感じていた。
 

その問いとは、「隠遁して、修行だけの生活を送っているヨーガ行者は幸せなのか?」というもの。


このことに関わる文章を何かの本で読んだ。いったいどの本だったろうかと夢の中で考えていたのだが、朝起きたとき無事思い出すことができた。「ユング自伝」である。
少し長くなるが、引用してみたい。

「インド人の精神性には善も悪も等しく含まれていると私には思えた。キリスト教徒は禅を求めて努力し、悪に捉われてしまう。これに反してインド人は自分自身が善悪の彼岸にいると感じており、黙想とかヨーガによってこの状態に到達しようと試みるのである。この点に私は異議があった。つまりこのような態度では善も悪も本来の明らかな輪郭をもたず、ある停滞状態をひき起こすのではないかということである。正当に悪を信じもせず、正当に善を信じもしない。善悪はたかだか私の善であり、私の悪であるものを、つまり私にとって善とみえ悪とみえるものを意味することになる。つまりインド人の精神性は善悪ともに欠如しているとともに、しかも対立せるものの重荷を負って、『相対性からの離脱(エルドヴァンドゥバ)』を、対立せるものからの、万物からの解脱を必要としていると、逆説的に言うことができる。

インド人の目標は道徳的完成ではなく、「相対性を離れた状態」である。インド人は自然からの解脱を求め、したがって黙想のうちにイメージの消去した状態、空の状態に達しようとする。私はこれとは反対に、自然の、そして心的イメージの生き生きとした観照のうちにいつもありたいと望んでいる。私は人間からも、自分自身からも、自然からも解脱したいなどと思いもしない。」

 

ヨーガの理想的な流れに身を委ねるのであれば、壮年期までに社会的な義務を果たしたのち、隠遁して修行の生活に入るのだろうが、現に今起こっているような社会の混乱の最中に、年金受給年齢は75歳に引き上げられようとしており、川の流れに翻弄されるかのように浮き沈みする一ヨーガ教師に隠遁生活など夢物語である、ということについては脇に置いておくとしても、私はそもそも隠遁して解脱を願う生活を欲するのか。

  

そもそも解脱とは?ということも、スピリチュアリティというラインのなかで、個々により解釈が大きく異なるだろうと思う。伝統的な宗教の考え方には反するのかもしれないが、「解脱とはこれこれこういうことですよ」という状態を経験済みのこととして教え示してくれるひとは、そうそういないことになっているので、私も今の自分の真実のなかで自由に解釈して良かろう。

 

ヒマラヤの厳しい自然の中で草の根を食べながら修行する行者さま(とても真似出来ないので呼び捨てにはできない)は、自分一人の修行のためにすべてを捧げ、この世界で起こっている出来事を迷妄と言い捨てて興味すらないのか、それとも彼らの中のアートマンを通じて、私たち一人ひとりのなかにいるアートマンやこの世を支える力そのもの(ブラフマン)を支えてくれているのか。

もしかすると彼等はこの迷妄の世界(マトリックス)を離れ、ザイオンで本物の人間のために命を削っているのかもしれない。
 

ユングの文章に初めて触れた時には、自分の解脱のために修行ばかりするのは如何なものかな、と思い、自分は世界に参画する生き方を選ぶぞ、などと考えていたのだが、こうして考えているとだんだんとわからなくなってきた。

 

お釈迦様は悟りを開いたあと、弟子を育てる気はなかったと聞いたことがある。それをブラフマン梵天)が引き留めて、なんとか迷える人のために、堪えて教え導いてくれと言ったそうだが、このブラフマンの一言が、お釈迦様の悟りを一時的な状態から段階へと固定させたんじゃないかなどと思った。こんなことを言っていると怒る人がいそうだが、教師というのは教えることがあるから教師なのではなく、人と向き合い教えることを通じて教師になるのだろう。それでは、社会から距離を置いて達成される解放とはなんなのだろうか。

 

昨晩答えたものよりずっと曖昧な言葉になってしまっていると思うが、私が社会とか世界とかいう言葉で表現するものと、行者さまが世界と表現するものの違いは厳密にはわからないように思うので、簡単には結論は出ない。ただ私は、自分にとっての社会や、そこで問題とされているものに向き合う術として、ヨーガという手法を活用したいし、自分の生活に現成してくる問題を今ここでそのまま修行と思って生きたい。

ヨーガの道にある者の他者との関係性とは、目の前の人の中のアートマンを尊重することに他ならない。今回頂いたこの問いを通じて、個々の健全性を大事にしつつそれを尊重することと、自分が健全な批判精神を持ち続けることの大切さを感じさせてもらった。ずっと心に留めておき、折に触れて真剣に考えていきたい。

島田さんに心からの感謝を。

 

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

 

 

№321 ほんとうの視力

敬愛する師の著書の、改訂版が出版された。 

 
初めて会ったときから「先生と呼ぶな」と言われているが、自分の理解が十分に及ばない世界観を垣間見せてくれる人に、ほとんど出会うことができない今の世の中で、間違いなくまだ見ぬ世界を先に生きている人だと思うので愛情を込めて「先生」と呼び掛けている。

資格や立場などでもって「先生」と呼ばれているのとは違う存在が、私には数名いて、そのことを有難いと思うし、その方々に出会うために経験しなければならなかった事々を思うと、自分も良く耐え抜いてきたなと感じる。


今の状況の中で、直接会うことなしにコミュニケーションを図る手段として、「オンライン飲み会」というものが行われている。私も先週お声掛け頂いたのだが、非常に面白かったので自分でも主宰することにした。飲み会と言いながら真剣な意見交換になることがわかったので、「オンライン飲み会&読書会」として、復刊された師の本を肴に語り合うことになっている。

昨日、私の住む県でも初の感染者が出て、県知事の会見が話題になっていた。原稿を見ないで話す、などとバカバカしいことで評価されるなんて知事自身も思わなかったのではないか。今の日本の首長の程度の低さが、政治家の評価水準を下げてしまっていることを憂う。

この西日本の、更に山の陰と言われる地域から、遥々東京まで出向いて研究会に参加するのは実に大変だったのだが、今図らずも感染症のお蔭で、オンラインとは言え仲間と頻繁にやり取りできる機会ができた。これは有難い変化だ。

 

当時、研究会で提示された課題作品のなかに、映画「マトリックス」があった。
この映画の公開は1999年。昨日改めて視聴したのだが、東洋的な宗教観や量子物理学の知見が盛り込まれており、20代の自分にはただの空想アクションとしか思えなかっただろう。何度見ても考えさせられる映画だ。

昨年、「マトリックス・エナジェティクス」という本を手にして、これまでヨーガの世界を通じて学んできたこの世の霊的な側面と、物質というものの在り様のからくりを垣間見たような気がして、非常に興奮した。
映画の中でネオが銃弾の動きを止めてしまうシーンがあるが、この世の物質の在り様を決めていると「自分が思いこんでいる」法則に対して疑いを持つことで、世界の在り様が実際に変化してしまう。

マトリックス・エナジェティクスの手法は、ネオが持つに至った世界観を身体症状に向けて自らの治癒を目指すものだが、「その痛みは、本当はないはずのものだ」という考えを採用するだけで、多少なりとも自分の身体感覚が変容してしまうことを体感することができる。ただ、その「ものの見方」を継続的に保ち得るかどうかは個々の信念にかかっているので、手法を教えることよりも、信念の方を変えていかれるような教育的支援こそ、大事なのだと思う。

マトリックスの世界では、人のもつ生物エネルギーを「人が生きること」以外に活用されてしまっている。誰もが皆、手のひらからバイオ・フォトンというものを出しており、計測できなくても感じることはできるはず。この、人から何の努力も無しに出ているエネルギーを如何に活用するかを考えずに、それはエビデンスがあるのかとか、科学的に立証されたら活用できますね、などと言っている間に、映画と同じようにこの力を別のことに悪用されるような世界になってしまうかもしれない。

目に見えない、計測できない面を如何に感じ、生きるために活用していくのか、情報収集は程々にして自分のできる貢献方法を考えていかなければならないと感じる。

こうやって自分の書いたものを公開することに対して、以前は強い恐怖心を覚えたものだ。今となっては、その恐れは、自分がある段階の構造に絡め取られているからこそ生じる恐れだったのだと思う。振り返るに、この10年をかけて、私は今まで自分がいた場所の人々から否定され攻撃されるということを繰り返してきた。言わば、村八分になる経験を山ほど積むことで前に進んできたのだ。なんども泣いたし、色んなことが面倒になり死にたくなることも度々だったが、今ふと、世界の景色が変わっているのを感じる。気のせいかもしれないが、これまでの踊り場にいる感じとは違うような気がする。

もう一度夢の中でまやかしの肉を食べ、カネや名声を求めたいか。
ほんとうに見る目を持って生きることは辛いことかもしれないが、私はやはり本当の視力が欲しいし、自分が見ているものが虚構だとわかりながら生きたい。