蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№328 身体というシャドウ

今日、日々内省のために書き連ねているリフレクション・ジャーナルが、6冊目に入った。混乱したり悩んだりしている時にこのノートと向かい合うことで、これからも助けられると思う。
しかし、このノート達は、私が死んだあとはいったいどうなるのであろうか。そして死ぬとき、ノートは何冊になっているのだろうか。

さて、今日はある方と約4年ぶり?にお話をさせて頂いた。
加藤ゼミ「卓越性の研究」の同窓生のの方で、リアルにお会いしたことはたったの一度。ゼミの同窓会を、神楽坂の豚肉料理店・シャ豚ブリアンで開催した時にお会いした。なつかしいなあ。

そして本日のこの対話が行われたのも、加藤先生のお蔭様である。メールを差し上げようかとも考えたが、先生の日々の静謐さを阻害したくないのでここでお礼を申し上げることにしたい。ありがとうございました!


さて、心身の統合は非常に大事である。

という表現をすると、「いったいなんのこっちゃ」と思われる方もおいでになるだろう。

ではここで質問。
あなたは、あなたの肉体を完全に自分のものだと感じ、肉体をもって生きていることに絶対的な安心感と至福を感じていますか?

私自身のことを語らせてもらえるならば、15年ほど前の私は肉体という地獄に捉われていた。なぜこんなに苦しいのかと。なんの病気も無いのになぜ。
例えば、耳を取り外してその穴の奥までブラシでごしごし洗ったり、目の玉を外して裏側に目薬を差したいと思う人は、かつての私以外にもいるはずだ。この脳みそをもっと賢いものと取り替えたいとか。

どこかに不調が現れたとき、あなたは新しい新鮮な、そして性能の良いなにかと、自分の“部分”を取り換えたいと願うだろうか(こんなふうでなければいいのに、と感じるのは病だとyogaでは言う)。
音楽を聴くとき、音を皮膚で感じるだろうか。体の中心に音が響くことに気付いているだろうか。隣にいるある人のお蔭で、口にするなにかが最高においしいものに感じられたりすることに気付くだろうか。
昨日と今日の自分の身体の違いを感じて、日々の営みを少し加減してみたりしているだろうか…

心と体にズレがある時、人はきっと腹の底では気付いている。なんだかヘンだとわかっている。
でもそれを外界の事物に投影したりして、自分のものでないことにしてしまっている。

シャドウワークの重要性を感じている人は多いと思うけれど、実は身体そのものが大きなシャドウと化しているのではないかと、今日対話の中で感じたのだ。

なぜあの優秀な人が、自分の身体を機械かなにかのように扱うのかと不思議に思うことがあった。逆に、言葉が理性と肉体のマリアージュのように魅力的に発せられ、こちらの心身を痺れさせる人もいる(たくさんはいない)。

心と肉体がぴたりと一致して生きる安心感を、もっと多くの人に味わってほしいと思う。それはなにかの薬を飲めば達成されるようなことではなく、時間と少しの努力を要することだけれども、その取り組みを行ってみれば必ず気付くはずだ。
肉体があるからこそ、苦しみや困難があったとしてもなお、喜びや満足を感じることができるのだと。

ヴェーダでは、この肉体はアートマンの馬車に例えられる。
私は今生、この馬車でやっていく。この車は軽自動車か、最高級のセダンなのか、それとも夢の乗り物か。たぶん、すべて自分で決めることができる。いつからでも変えることができる。

その性能や乗り心地を、決して外からの見た目で評価してはならない。
そんなことをすると重大な間違いが生じたり、落とし穴に落ちたりする。
はりぼてのように外面だけが素敵な乗り物でなく、ドアを閉じてそっとシートに身を委ねると、感極まって背筋に電流が流れるような、そんな乗り物に乗って生きたい。そんな乗り物として、誰かと一緒に活動したい。

そのために身体的実践はある。

人生は決して安定しない。胸を掻きむしられるように苦しいこともある。
それでもあなたがその肉体の中で生きることで、「自分は確かに守られており、安全である」と感じることは可能だ。あなたの身体の実践がまだその感覚をもたらしていないのならば、肉体を持って生きることの凄さに、まだ気付けていないだけかもしれない。

人が心身の統合を遂げることができれば、原因不明の慢性病などは減っていくはずだ。だから一人ひとりが自分の身体と向き合うことは、次世代の医療へとつながっていく。

あなただけが、あなたという存在の権威なのだから、どんな判断も人に預けずにすべてあなたが決めて欲しい。
きっとできるから、諦めないで。