蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№331 答えのない問い

しばらく前にしまださんから与えられた問いに、答えが出た気がする。
険しい山中で修行三昧に生きる行者さんは幸せなのか?という問い。

数日前、仲間が集まって開催している読書会に、著者の方をお招きしてなんでも質問できるという贅沢な時間を持つことができた。ご厚意で参加して下さった著者の鈴木先生に大感謝である(あえて“先生”と呼ぶのは、私にとって愛の表現みたいなものなので許して欲しい)。

 

 
感染症のことがなければ、オンラインでこの読書会が行われたかどうかわからない。
オンライン飲み会の時に盛り上がり、勢いで立ち上がった読書会だから。そしてこんな状況でなければ、先生はわざわざ参加してくれなかったような気がする(代わりに、リアルな出版イベントが開催されていただろう)。

数名の参加者がそれぞれ活発に問いを発し、様々な示唆を頂いた。
どの質問にも答えなんてない。これからどうしていくのがいいのか、自分の悩みの方向性は間違っていないか…。どの問いにも非常に真摯にお答え頂き、この方の人としての器量と愛を改めて感じさせられた。しみじみと私はこの方が好きだ。やり取りをした晩、夢に見てしまうほどに。

現在の状況の中で、世界をこれまでと同じように見ることができなくなった。
これは悪い面ばかりではないと思う。これまで全く知らなかったこと、興味を持てなかったことに対しても意識を向け、積極的に調べたり本を読んだりしている。届く本のジャンルはこれまでとはガラリと変わって多様性を増している。そしてますます世界は違って見えてくる。自分の無知が恥ずかしさを通り越して恐ろしく、馬鹿でいるからこそこの世がなんとなく楽しげに見えていただけだとわかった。

今の私は世界に軽く絶望している。
同時に、今、確かに生きているこの世界に対して、完全に絶望したりできない。
これまでに何度も、自分のことが森の木の樹洞のなかで惰眠を貪っている栗鼠かなにかのように感じられることがあったが、感じもなにもまさにそのとおりであったし、もしかすると、実際に森に生きる栗鼠以上にお目出度い生物だったのかもしれない。厳しい自然と、素のままで共存する栗鼠に謝らなくてはならない。

冒頭の問いの話に戻ると、山の中に籠ってしまう選択をした行者さんの絶望感を私は想像し得ていなかった。最も深い眠りのなかでのみ現前するものこそが真のリアルである、という言葉は、起きて見ている世界が、教えのなかで示され、私たちが目指すべきとされている善とあまりにも乖離しているということを暗に表現しているのではないだろうか。

この世はすべて迷妄である、ということは、単に哲学的な言葉なのか。それとも過酷な現実を前にしての魂の叫びなのか。今の私は後者のような気がしてならない(数年後には違う理解に至っているのかもしれないが)。

そして、カルマ・ヨーガの意味するものも、なんとなく理解できたような気がする。
「無為になるな。汝の為すべきことをなせ。」とクリシュナ神は言う。
そして、自らが為そう、と決めたことが山に籠ることだったとしても、世俗の中で闘うように生きることだったとしても、どちらでもいいはずだ。

この世に絶望しても無為になるな、という教えをもカルマ・ヨーガは示しているのだとすると、以前にも増して「バガヴァット・ギーター」を、現代の自分なりの視点で改めて読み解こうとすることが大事になると感じている。何か別の媒体を使って、かつて救われたと感じたことのあるこの書籍について、誰かに向けて語ることを始めてみたい。

自分がどれほど無知で愚かかわかってくると、身が竦む。足が震えるようだ。
自分にできることなど何一つないような気持ちになる。でも、こんな私でも、これまで自分が見聞きし、取り組んできた事々から何かしらの真実を受け取ってきた。そして救われた。この真実は他の誰かの役に立つのだろうか?立たないかもしれない。
でも、もし、たった一人だけにだとしても役に立つのだとしたら?
だから私は何とか自分を奮い立たせて、バガヴァット・ギーターの言葉に従おうと思っているのだ。

読書会後の鈴木先生のブログに大いに力を頂いたので、忘れないようここに記録しておく。
http://norio001.integraljapan.net/?eid=358

私も、答えの無い問いと格闘できる人間になりたい。山に籠っても、籠らなくても。