蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№324 呼吸の健康効果

皆さん、マスクをして過ごす時間が長くなっていることと思う。
鍼灸の先生との会話で、呼吸が普段から浅い方はマスク着用時に息苦しさを感じないようだとの話題が出た。

なので、マスクをしている状態に慣れるのが大変な人もいるだろうが、そういう方は普段の呼吸がしっかりできているのだから、自信を持たれると良いと思う。また、どちらの方も、自宅など安全な場所ではしっかりと深い呼吸を意識してほしい。

ヨーガではプラーナーヤーマという呼吸の実践があり、体操実習でも呼吸を大事にしている。普段から呼吸に関する何かしらの実践を行っていない方は、やはり呼吸が浅いようで、一説には、肺の上部三分の一しか使用していないと言われる。

ただでさえ呼吸が浅いところに更にマスク着用という条件が加わることで、呼吸のみならず心身両面の調和に悪影響が出る可能性があるので、今日はその点について語っておきたい。

 

ヒトは生きるために呼吸という活動を必要とする。
生まれた瞬間に自発呼吸が始まり、誰にも教えられずに呼吸という活動を行ってきたわけで、自分の呼吸というものを改めて意識することはあまりないかもしれない。

 

パタンジャリは「ヨーガ・スートラ」において、呼吸についてこう述べる。
Ⅰ-31 苦悩、落胆、手足の震え、荒い息遣いが、乱心の兆候である。

Ⅰ-34 息を吐き、息を止めることで、心身を清浄にさせる。

呼吸の早い遅いによって、心が乱れたり、落ちついたり、血流の流れが変わったりすることは、誰しも経験があるだろう。スートラの記述を見ると、昔からゆっくりと息を吐くことによる、心身への効果が理解され活用されてきた事がわかる。息を止めることに関しては、禁忌もあるので自己流ではやらないで欲しい。

呼吸がゆっくりと深く行われるということは、要するに腹式呼吸ということ。
呼吸の時に胴体は全方位に動くが、特に重要なのは下腹部、腰のあたり、そして肛門の辺りになる。

こういったお腹を動かす呼吸がなぜ心身両面にいいのか。3つの面がある。
1.横隔膜を下に下げて緊張させる
2.肺の内圧と腹圧を高める

3.横隔膜と腹部や内臓の機械的運動を行う

詳しく説明すると…

1.横隔膜の上下には脳脊髄神経系と交感神経系がきており、このふたつの神経系を連絡する迷走神経系が横隔膜をつらぬいて分布している。そのため、横隔膜を使った呼吸によりこの3つの神経系に刺激を与えることができる。
悲しみや驚きや怖れという感情により内臓に症状が生じると漢方では教えているが、これらの感情を抱くと横隔膜は上がってしまうそうだ(お腹を使った呼吸が出来なくなる)。呼吸に合わせて横隔膜の上下運動を行うことで、精神的な落ち着きを保ち、ひいては肉体的にも良い変化をもたらすことができる。

 

2.肺の圧力は大気圧とそれよりも低い陰圧のあいだを往復する。
肺の末端の肺胞で酸素は直に血液と触れるが、この肺胞内にて血中の炭酸ガスやその他の有機ガスと酸素を交換し、ヘモグロビンに酸素を固定させ、体内を循環させ、新陳代謝を引き起こす。

いかに多くの酸素を血液中へ固定させうるかが、健康に影響を与えることなる。
また腹圧も高められ、内臓を刺激することになる。

 

3.深い呼吸を行うと、下腹部の緊張と弛緩により腸壁及び内臓の機械的蠕動運動への影響が生じるだろう。呼吸に伴う動きが腸の働きを助けることになり、結果的に全身の血液循環を活性化させると思われる。
呼吸法の実践により、体温が上昇することはあまり知られていないように思うが、とても大事な効果だ。

難しいことはさておき、毎日一度でも、下腹部を意識的に動かす呼吸を実践して欲しい。

ポイントは、息を吸った時下腹部が膨らみ、腰の部分が床に押し下げられること、
そして吐くときに肛門を締めること。
吐く息の方を吸う息よりも長めにすることだ(少しでいい)。

仰向け、立膝の姿勢で行うと分かりやすいし、手をお腹に当てて動きを感じながら行うと良いだろう。上記の点に気を付けて行うことで、体幹部の筋肉を鍛える効果もある。また、目を閉じて、内面の感覚を感じながら、その瞬間の一息一息に集中して行うことで、瞑想で得られるポジティブな効果も体感できるはずだ。

№323 マインドフルネスの影

瞑想には色々な効果がある。
https://diamond.jp/articles/-/180610

「なまけものの健康法」で副作用もない、とのこと。まるでいいことばかりのように聞こえる。世界には成長・発達を礼賛する風潮が強くあり、その傾向に後押しされてマインドフルネス業界があるのだろう。

 

ところで、今日の政治の状況について、市民として正当な怒りを感じ、勇気をもってそれを発信している方々が多いことは素晴らしいと思う。誰しもなにがしか自分の意見を持っているはずで、それを発信する自由もあるはずだが、「批判するな」という主張も聴こえてくる。

ヨーガの世界で聖音とされる“AUM”という言葉がある(日本でいう「阿吽」)。
この音を唱えると、恐怖の感情にかかわる脳領域の活動が抑制されることが機能的MRI画像で確認されたそうだ(便利な世の中になったものだ)。
しかし、このAUMの言葉が意味する「すべてを受け容れる」という心を、曲解して使っている人もいるように思う。

今起きていることやそれに対する政府の対応に対して、「AUMの心ですべて受け容れます」と思うことももちろん自由。しかしそれは単なる思考停止ではないか。そのままに受け容れ、意識した上で現実的に行動せよ、とバガヴァットギーターでクリシュナ神も言っているではないか。

瞑想で成長できますよ、というだけでは、どんなものにも内在している影の部分を見過ごすことになるだろう。AUMの言葉に対する一面的な解釈もその一つのように思う。長い伝統のもとに受け継がれてきた行法には、諸刃の剣のような鋭さをもつものもあるから、活用にあたっては留意が必要だということに対して自覚を持って実践している人はどれほどいるだろうか。

 

日本でもマインドフルネスの実践を行っている人は一定数いるはずだ。確かに瞑想には効果がある。ヨーガ療法指導においても、瞑想を行うか否かでは主訴の改善に関して大きな差があると体験的にも感じているが、その指導は慎重に行われなければならない。

ヨーガでは段階を追って実習を行じていくので、身体的な実践抜きに瞑想を行う人はほとんどいないはずだ。また、ラージャ・ヨーガでは瞑想後の言語化を重要視しており、座りっぱなしにさせるような指導はしない。身体を軽視しないこと、行の結果生じた内的なものを言語として外の世界に表現することが、ヨーガ以外の瞑想指導では欠けているように見える。

伝統的な教えによると、ヨーガ実践はまず社会的な関わりにおける自分の心の在り様の意識化から始まり、次に浄化を含む身体の実践、そして呼吸を用いた気の調整へと至る。ここまでの実践を丁寧に行っていくと、いずれ感覚や感情の制御ができるようになっていることに気付く。そこからが本当の瞑想の始まりになるだろう。心身の統御が疎かな状態で、肉体よりもさらに精妙なエネルギーを扱うことはできないと教わって来たし、実体験からも確信している。また、心身の浄化が為されていない状態で精妙なエネルギーに触れると思わぬ障害が起きるともいうが、これも実感している。

日本の禅の実践では、初心者にも初めから厳しい座禅修行を課す形で修行が行われるそうだ。詳細はわからないので恐縮だが、新参の修行者がはケガをしたり体調を崩したりすると読んだ。 座禅の世界の長い経験の中で、そうした修行法のメリットやケアの方法を十分に蓄積しているのだろうと思う。

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)

 

 
この、真剣に禅の修行に向き合う人の中で起きる病を「禅病」といい、日本では白隠禅師が自身の体験からその対処法を教え伝えたため、多くの修行者を救ったと言われている。

では、現代のマインドフルネス実践者はどうか? 
万が一マインドフルネスによって障害が起きた時、適切に救済してくれる人はいるのか?

アメリカ的な考えによると、30年かかる修行でようやく手にすることのできる変化をなにがしかのツールを使って短縮できるそうだ。何らかの計測を用いて知ることのできる一部の指標においては「禅マスターになった!」と言えるのかもしれないが、人間存在の全体性としてはどうなのか。にわか禅マスターには、一片の影も生じないのか?

今、このアメリカ的な瞑想の捉え方の被害ともいえる、現代の禅病が蔓延しているのかもしれないと危惧している。
なぜ修行はゆっくりでなければならないか。個々の差や修行の進み具合が尊重されねばならないか。なぜ身体的な実践を疎かにしてはならないのか。今、改めて考え直す必要がある。

 

調子を崩せば多くの方は病院に行くだろうが、検査しても原因がわからない症状に対する対処法が「とりあえず」の投薬であれば、良かれと思ってなされたその治療が、更に人間に備わっている根源的な力を奪うことが想像できる。西洋医学はスピリチュアル・エマージェンシーに対処する術を持たないだろう。今も、これからも。

 

ここにある肉体を軽視して、精神の修行に手を出す勿れ。
そんな無謀なことをしていては、命がいくつあっても足らない。リアルな心身を尊重することなしに、健全な在りようは養われないはずだ。

№322 修行に生きるのはしあわせか?

昨晩、ゼミナール同窓生有志とのオンライン飲み会を開催した。
読書会を兼ねてと思っていたが、薄々予想していた通り無理だった。とは言え、話題は多彩に展開されていき、非常に有意義な時間となった。

 
会の中である質問を受けたのだが、その問いは私自身の専門性やどのようにこの専門を活用していくかの根幹に繋がる問いであって、その夜の眠りの中でずっと「私は相当興奮している」と感じていた。
 

その問いとは、「隠遁して、修行だけの生活を送っているヨーガ行者は幸せなのか?」というもの。


このことに関わる文章を何かの本で読んだ。いったいどの本だったろうかと夢の中で考えていたのだが、朝起きたとき無事思い出すことができた。「ユング自伝」である。
少し長くなるが、引用してみたい。

「インド人の精神性には善も悪も等しく含まれていると私には思えた。キリスト教徒は禅を求めて努力し、悪に捉われてしまう。これに反してインド人は自分自身が善悪の彼岸にいると感じており、黙想とかヨーガによってこの状態に到達しようと試みるのである。この点に私は異議があった。つまりこのような態度では善も悪も本来の明らかな輪郭をもたず、ある停滞状態をひき起こすのではないかということである。正当に悪を信じもせず、正当に善を信じもしない。善悪はたかだか私の善であり、私の悪であるものを、つまり私にとって善とみえ悪とみえるものを意味することになる。つまりインド人の精神性は善悪ともに欠如しているとともに、しかも対立せるものの重荷を負って、『相対性からの離脱(エルドヴァンドゥバ)』を、対立せるものからの、万物からの解脱を必要としていると、逆説的に言うことができる。

インド人の目標は道徳的完成ではなく、「相対性を離れた状態」である。インド人は自然からの解脱を求め、したがって黙想のうちにイメージの消去した状態、空の状態に達しようとする。私はこれとは反対に、自然の、そして心的イメージの生き生きとした観照のうちにいつもありたいと望んでいる。私は人間からも、自分自身からも、自然からも解脱したいなどと思いもしない。」

 

ヨーガの理想的な流れに身を委ねるのであれば、壮年期までに社会的な義務を果たしたのち、隠遁して修行の生活に入るのだろうが、現に今起こっているような社会の混乱の最中に、年金受給年齢は75歳に引き上げられようとしており、川の流れに翻弄されるかのように浮き沈みする一ヨーガ教師に隠遁生活など夢物語である、ということについては脇に置いておくとしても、私はそもそも隠遁して解脱を願う生活を欲するのか。

  

そもそも解脱とは?ということも、スピリチュアリティというラインのなかで、個々により解釈が大きく異なるだろうと思う。伝統的な宗教の考え方には反するのかもしれないが、「解脱とはこれこれこういうことですよ」という状態を経験済みのこととして教え示してくれるひとは、そうそういないことになっているので、私も今の自分の真実のなかで自由に解釈して良かろう。

 

ヒマラヤの厳しい自然の中で草の根を食べながら修行する行者さま(とても真似出来ないので呼び捨てにはできない)は、自分一人の修行のためにすべてを捧げ、この世界で起こっている出来事を迷妄と言い捨てて興味すらないのか、それとも彼らの中のアートマンを通じて、私たち一人ひとりのなかにいるアートマンやこの世を支える力そのもの(ブラフマン)を支えてくれているのか。

もしかすると彼等はこの迷妄の世界(マトリックス)を離れ、ザイオンで本物の人間のために命を削っているのかもしれない。
 

ユングの文章に初めて触れた時には、自分の解脱のために修行ばかりするのは如何なものかな、と思い、自分は世界に参画する生き方を選ぶぞ、などと考えていたのだが、こうして考えているとだんだんとわからなくなってきた。

 

お釈迦様は悟りを開いたあと、弟子を育てる気はなかったと聞いたことがある。それをブラフマン梵天)が引き留めて、なんとか迷える人のために、堪えて教え導いてくれと言ったそうだが、このブラフマンの一言が、お釈迦様の悟りを一時的な状態から段階へと固定させたんじゃないかなどと思った。こんなことを言っていると怒る人がいそうだが、教師というのは教えることがあるから教師なのではなく、人と向き合い教えることを通じて教師になるのだろう。それでは、社会から距離を置いて達成される解放とはなんなのだろうか。

 

昨晩答えたものよりずっと曖昧な言葉になってしまっていると思うが、私が社会とか世界とかいう言葉で表現するものと、行者さまが世界と表現するものの違いは厳密にはわからないように思うので、簡単には結論は出ない。ただ私は、自分にとっての社会や、そこで問題とされているものに向き合う術として、ヨーガという手法を活用したいし、自分の生活に現成してくる問題を今ここでそのまま修行と思って生きたい。

ヨーガの道にある者の他者との関係性とは、目の前の人の中のアートマンを尊重することに他ならない。今回頂いたこの問いを通じて、個々の健全性を大事にしつつそれを尊重することと、自分が健全な批判精神を持ち続けることの大切さを感じさせてもらった。ずっと心に留めておき、折に触れて真剣に考えていきたい。

島田さんに心からの感謝を。

 

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

 

 

№321 ほんとうの視力

敬愛する師の著書の、改訂版が出版された。 

 
初めて会ったときから「先生と呼ぶな」と言われているが、自分の理解が十分に及ばない世界観を垣間見せてくれる人に、ほとんど出会うことができない今の世の中で、間違いなくまだ見ぬ世界を先に生きている人だと思うので愛情を込めて「先生」と呼び掛けている。

資格や立場などでもって「先生」と呼ばれているのとは違う存在が、私には数名いて、そのことを有難いと思うし、その方々に出会うために経験しなければならなかった事々を思うと、自分も良く耐え抜いてきたなと感じる。


今の状況の中で、直接会うことなしにコミュニケーションを図る手段として、「オンライン飲み会」というものが行われている。私も先週お声掛け頂いたのだが、非常に面白かったので自分でも主宰することにした。飲み会と言いながら真剣な意見交換になることがわかったので、「オンライン飲み会&読書会」として、復刊された師の本を肴に語り合うことになっている。

昨日、私の住む県でも初の感染者が出て、県知事の会見が話題になっていた。原稿を見ないで話す、などとバカバカしいことで評価されるなんて知事自身も思わなかったのではないか。今の日本の首長の程度の低さが、政治家の評価水準を下げてしまっていることを憂う。

この西日本の、更に山の陰と言われる地域から、遥々東京まで出向いて研究会に参加するのは実に大変だったのだが、今図らずも感染症のお蔭で、オンラインとは言え仲間と頻繁にやり取りできる機会ができた。これは有難い変化だ。

 

当時、研究会で提示された課題作品のなかに、映画「マトリックス」があった。
この映画の公開は1999年。昨日改めて視聴したのだが、東洋的な宗教観や量子物理学の知見が盛り込まれており、20代の自分にはただの空想アクションとしか思えなかっただろう。何度見ても考えさせられる映画だ。

昨年、「マトリックス・エナジェティクス」という本を手にして、これまでヨーガの世界を通じて学んできたこの世の霊的な側面と、物質というものの在り様のからくりを垣間見たような気がして、非常に興奮した。
映画の中でネオが銃弾の動きを止めてしまうシーンがあるが、この世の物質の在り様を決めていると「自分が思いこんでいる」法則に対して疑いを持つことで、世界の在り様が実際に変化してしまう。

マトリックス・エナジェティクスの手法は、ネオが持つに至った世界観を身体症状に向けて自らの治癒を目指すものだが、「その痛みは、本当はないはずのものだ」という考えを採用するだけで、多少なりとも自分の身体感覚が変容してしまうことを体感することができる。ただ、その「ものの見方」を継続的に保ち得るかどうかは個々の信念にかかっているので、手法を教えることよりも、信念の方を変えていかれるような教育的支援こそ、大事なのだと思う。

マトリックスの世界では、人のもつ生物エネルギーを「人が生きること」以外に活用されてしまっている。誰もが皆、手のひらからバイオ・フォトンというものを出しており、計測できなくても感じることはできるはず。この、人から何の努力も無しに出ているエネルギーを如何に活用するかを考えずに、それはエビデンスがあるのかとか、科学的に立証されたら活用できますね、などと言っている間に、映画と同じようにこの力を別のことに悪用されるような世界になってしまうかもしれない。

目に見えない、計測できない面を如何に感じ、生きるために活用していくのか、情報収集は程々にして自分のできる貢献方法を考えていかなければならないと感じる。

こうやって自分の書いたものを公開することに対して、以前は強い恐怖心を覚えたものだ。今となっては、その恐れは、自分がある段階の構造に絡め取られているからこそ生じる恐れだったのだと思う。振り返るに、この10年をかけて、私は今まで自分がいた場所の人々から否定され攻撃されるということを繰り返してきた。言わば、村八分になる経験を山ほど積むことで前に進んできたのだ。なんども泣いたし、色んなことが面倒になり死にたくなることも度々だったが、今ふと、世界の景色が変わっているのを感じる。気のせいかもしれないが、これまでの踊り場にいる感じとは違うような気がする。

もう一度夢の中でまやかしの肉を食べ、カネや名声を求めたいか。
ほんとうに見る目を持って生きることは辛いことかもしれないが、私はやはり本当の視力が欲しいし、自分が見ているものが虚構だとわかりながら生きたい。

№320 ほんとうに見るということ

コロナウィルスの流行の中、感染症を題材とした小説等がよく読まれているようだ。
Twitterで紹介されていた「白の闇」を手に取ったが、読み始めると止まらず、明け方までかかって読み終えてしまった。

「白の闇」は、ポルトガル初のノーベル文学賞受賞者ジョゼ・サラマーゴの小説で、1995年に出版された(原題:Ensaio sobre a cegueira)。日本では2001年出版、2008年に新装版が文庫で出版されている。

 

白の闇 (河出文庫)

白の闇 (河出文庫)

 

 



原因不明の眼の症状がどんどん蔓延していく。
突然視覚を奪われた人たちは、伝染性の疾患であるということで隔離されるのだが、治療法もわからない上、看護してくれる人も、単に生活の世話をしてくれる人もいない状況の中で、文字通り手探りで新しい暮らしを確立しようともがき続ける。

このなかにたったひとり、目が見える人物がいた。
夫を心配して、「見えない」と主張することで(「見える」という経験は主観的なもので、所見上障害がなければ確かめる術はないのだ)共に隔離状態に入った女性は、他のみなと同じように見えないふりをしつつも、実際にはすべてを目撃している。
自らは見えない、他の皆も見えないはずの状況の中で、人のふるまいは以前とは変容していく。突然見えなくなった人たちの生活は目を覆いたくなるような惨状なのだが、女はすべてを見ている、いや、見ざるを得ないのである。

隔離され、軍隊に監視され、食事すらも不足している。医薬品も無い、衛生状態も最悪である。施設内に収監されている人々にはわからないが、今この瞬間にも塀の外では次から次へとこの病が蔓延していっており、行政府も機能停止に陥っていたのだった。

この小説のラストは光明があるように見せつつも、「目が見えるといいながら誰も何も見ていないではないか」と語られる。

ロバート・J. リフトンの「ヒロシマを生き抜く ―精神史的考察」にあったと思うのだが、被爆時、その惨状を確かに「見た」人と、火傷や怪我により目を開けてみることができなかった人とでは、その体験に対する心理的な落差が非常に大きいそうだ。見なかった人にはその情景は無いに等しいのだから、トラウマ的な症状の発現や、その後の人生観にも大きな差が生じることは想像に難くない。

この小説の中には、もともと盲人だったのに隔離施設に紛れ込んでしまった人が登場するが、彼は元来見えないという生活を送ってきたので、視覚以外の方法で世界から情報を受け取る能力が非常に高い。
この小説を読んでから、読みかけだった「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 (伊藤 亜紗 著・光文社新書) を本棚から引っ張り出して読了したのだが、目の見えない方には死角が無いそうである。江戸時代の全盲国学者塙保己一の「やれやれ、目明きとは不便なものよ」との言葉が紹介されているとおり、目が見えていることと引き換えに失っている能力がたくさんあるのだ。
小説の中でも、目が見えている女と視覚以外の感覚が非常に発達している男は、隔離施設内の立場の差により激しく対決することになるのだが、目に頼らない人の感覚の鋭さが伝わる秀逸な描写だった。

 

目が見える人たちは、情報取得の約8割を視覚に頼っていると言われる。
そのため「見えない」ことが不安で仕様がない。ヨーガクラスでも、まずこの視覚に頼ることを我慢してもらって、それ以外の感覚をフル稼働させて安心感を確立させる練習をしてもらう(心理的な不安感が強い方に対しては、この方法は使ってはならない)。

現在の状況の中で、テレワークやオンラインという形で仕事を行っている人も多いだろうが、視覚優位の生活をしてきた方がとって、この様な形態の業務遂行は非常にストレスフルだろうと容易に想像できる。
来週から本格的にオンラインでのクラスを行うことになったが、指導者を見ても楽になることはないヨーガという取り組みを通じて、視覚以外の感覚を養い、ストレス耐性を育てて欲しいと願っている。

 

この小説は、2008年にフェルナンド・メイレレス監督によって『ブラインドネス』として映画化されている。多様な人種構成でキャスティングされたとのことで、日本人では伊勢谷友介木村佳乃が出演している。映画は小説に比べて、希望を残した結末にまとめていると感じた。小説も映画も素晴らしい。ぜひどちらも手に取ってみて欲しい。
小説は二編の続編があるそうだが、残念ながら日本語訳はない。これを機に翻訳の動きがあればありがたい。

思いもよらないことは起こり得る。自分が「確かだ」と思っていた世界が崩れることはあるのだ、ということを、既に震災等で経験された方もおられるが、未体験の人も多いだろう。確かなものなど何もないからこそ、既存の枠組みに依存しない生き方の指針や、自己の内面の確固たる安心感を確立して生きねばならない。

見えているといいながら、見ていないような生き方をしないためには、どうすればいいのか。この作品は、私の中に大きな宿題を遺した。今後、このことをしっかり心に留めて生きたい。

余談だが、映画の主要人物のひとりを、どこかで見たことがあるが誰だろう…とモヤモヤしていたのだが、あとで調べると“超人ハルク”だった。緑色じゃないからわからなかったな。

№319 粘膜を清浄に

コロナウィルスの感染を防ぐための方策として、あくまで一医師の見解ではあるが、多くの患者が手から顔のルートで感染していること、手の洗浄の重要性が伝わる動画がFacebook上でシェアされていた。
https://www.facebook.com/kyoya.kimura/videos/3007883442611489/

 

手で顔に触れる、という行為についてここ数日意識化していたのだが、その頻度はかなり多い。鼻が痒くなる、目元や口元を意味もなく触る、ということを無意識に、そして頻繁に行っている。

ヨーガとは兄弟関係にあるインド伝承医学アーユルヴェーダでは、粘膜の浄化を重視しているのだが、この状況下で、普段から行ってきた日々の実践の価値が再認識されるように感じている。

世界最古の医学と言われるアーユルヴェーダでは、実に多くの浄化法が伝わっているわけだが、外の世界から自分のもとへやって来るもの(その多くは避けがたい)を如何に受け止めるか、そして受け取ってしまったものを如何に外へ出すか、ということについて、物質面からも目に見えない面からも考え抜いていると思う。

細かいことは今語っても仕様がないので、ここでは毎日やりたい浄化法等について紹介しておこう。

人の体は、不要なものや有害なもの(アーマという。毒素と言われることもあるが、本当は少し違う)を体外に排出する機能がある。アーユルヴェーダの実践法は、心身の基本的な機能を高めるためにある。

アーユルヴェーダの実践法の多くは西洋医学的な裏付けがまだ得られていないものも多くあるが、その理論の基礎をなす「トリ・ドーシャ理論」は、2015年にNATUREに掲載された論文では、遺伝子検査と照らし合わせた結果それなりに整合性があることも解ってきており、西洋的なエビデンスと合わせて現在でもアップデートがなされていることを紹介しておきたい(http://bioclub.org/news/ayurveda_reprot01に詳しい。)

【朝】

特に朝は重要。睡眠中に、脳でも肉体でも大掃除のような作用が起き、不要なものを体外に出すために準備してくれる。捨てねばならないものを、うっかり飲み込んだりしないようにしたい。

・目覚めたらまずうがいをし、舌の掃除を行うこと。
 タン・スクレイパーという専用の器具があり、アマゾン等で購入することができる。
素材は銀製がベストと言われているが、カレースプーンで代用しても良い。
ちなみに、歯ブラシで舌をこすっては絶対にダメ! 排出されるために浮き上がってきたもの(アーマ)が再度組織内に押し込まれてしまう。

 

 

・舌掃除の後、口をよくすすぐ。この行為を終える前に、何かを飲んではいけない!
水分摂取は口内を清浄にしてからである。オイルや蜂蜜を用いたうがい(ガンドゥ―シャ)を行うと更に良い。

 

・コップ一杯の白湯を飲む
温度はお好みで(体質によって違うので、自分のからだの声を聴いて決める)。
定量の白湯を飲んで、消化管を掃除するイメージ。
余談だが、空腹時に消化管から腸に掛けて食物の残滓や菌を排出させるための動きが生じるそうである。空腹時にしかこの働きは起きないので、この点からも間欠断食や食間を十分に開ける(間食をしない)ことは重要だ。知人がシェアしていたが、肥満だと感染リスクが上がるというのは、こういうことも関連しているのではないかと考えている。

 

・鼻の洗浄 =ネティ・クリヤ
鼻の穴から塩水を入れる浄化法。鼻の穴から隣の鼻の穴へ、という方法と、鼻の穴から喉へ、という二つの方法がある。生徒さんに勧めても実践する人が増えないが、一度はまる二度とやらずに生きられないくらいインパクトがある。鼻の奥に溜まった粘膜を塩水で洗い流すので、喉が大変スッキリする。粘膜が荒れている時には中止すること。
 

 

・朝のきれいな空気で深呼吸
肺の中の空気を浄化しよう。外気が心配な方は空気清浄機の前で。

 

・非加熱の蜂蜜で目の洗浄
過激に聞こえるかもしれないが害はない(アーユルヴェーダの目薬には、蜂蜜が成分として入っているものがある)。清潔な綿棒でちょんちょんと瞼の裏につけると、自然に涙が流れてくる(注:とても沁みます)。自力で涙を分泌させる「涙力」を高めることで、浄化力を上げておこう。これは夜(入浴時や洗顔後)にも行って欲しい。

 

・鼻の穴の保湿
太白胡麻油のような匂いのない油を、鼻の穴に塗る。保湿効果を高めて、粘膜の健康度を保つことができる。余談だが、鼻の穴に指を突っ込む行為で人は心が落ち着くそうだ。清潔な指に油を塗って(人に見られないところで)鼻に突っ込んで優しくマッサージしてみよう。心身両面に役立つはず。

 

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【1日を通して】
・痰や鼻水などは、すぐにティッシュにとって捨てる。

  何気なく飲んだりしている方、今すぐやめて! 粘膜に絡め取られた何かが、胃酸で死ぬのかどうかはわからない。死なないからコロナが蔓延しているのではないでだろうか。

 

 ・水分摂取に気を配り、粘膜の潤いを保つ
脱水状態の粘膜は健全に働けない。風邪を引いた時、まず鼻のなかや喉が乾燥する感じがわかる方もいると思う。粘膜が荒れて、そこに菌が付着して感染するのだとすると、潤いのある粘膜ならば絡め取って(痰や鼻水として)体外に出してくれる。

 

【帰宅後】

 ・夕食前に入浴する
外から持ってきたものを洗い流す。髪の毛にはいろんなものが付着している。
消化力も上げることができる(湯船に浸かること)。

 

【夜】 

 ・よく眠る
睡眠の重要性は言い尽くせない。眠れない方はリラクゼーションなどを試して欲しい。ヨーガでも、指導法によっては不眠が改善される。どうしても困っている方は個人的にご相談を。

 

思いつくものを取り急ぎ書いてみた。できることからやってみて欲しい。
心身に関しては自らの生き方が砦となる。インテグラル理論の四象限でいうところの「右上」からの健康に対するアプローチの重要性について、この機に真剣に考えて欲しい。

 

№318 呼吸の乱れ

呼吸とリラクゼーションの関連について、エビデンスがあるのですか? というご質問を頂いた。多くの方は、自分の体をどうやって楽な状態へ導くのかの方法についてご存じないのだということに、改めて気付かせて頂いた。

今、瞑想にまつわる研究が盛んに行われているので、たくさんのエビデンスが続々と出てきている。医学的に信頼性の高いエビデンス二重盲検試験など)を出すことは、何かの研究に加えて頂かない限りヨーガ・セラピスト個人としては難しいが、呼吸を重視した体の動きを用いることで心身を平安な状態に導き、呼吸数や心拍数、心理状態の変化を測り、個人の語りを元に評価することなら私たちも行ってきた。

民間の資格とはいえ、日本でヨーガ療法士として認定を受けるためには20名の方に指導した結果を症例として提出し、うち1名分を研究総会にて発表しなくてはならない。
日々の指導を通じて、結果的にヨーガがどのように寄与できたのか、それともできなかったのかを、指導者はいつも心に留めておかねばならないと思っている。当然のことだけれど。

さて、伝統あるヴェーダ智慧では、病気に至る過程を説明している。
ヨーガの根本経典である、「ヨーガ・スートラ」Ⅰ-31にある記述を紹介しよう。

「苦悩、憂うつ、体の震え、呼吸の乱れなどが心の散動状態に伴って起こる」

心身のいかなる障害も、いかなる感情(否定的な感情なら尚更)も、苦悩や憂うつをもたらし、筋肉や血管の収縮リズムを乱して、「身体の震え(アンガメジャヤドヴァ)」や「呼吸の乱れ(シュヴァーサ・プラシュヴァーサ)」を引き起こす。

この乱れは、病気に至る心身の連鎖的な反応を開始する引き金になる。呼吸リズムの乱れは、この筋肉や血管の乱れが原因になっているからこそ、呼吸という窓を通じて、結果的に生じた肉体の乱れを調えていく訳だ。


呼吸と一口にいうが、三つに分けて考えることができる。
1. 浄化法としての呼吸
2. 通常の呼吸
3. プラーナーヤーマ(調気法)

この3つの差は何かというと、単純に言うと1分間当たりの呼吸数の差である。
1から3の順で呼吸数が減っていく。

浄化法は、お腹や胸をしっかり動かしながら強く息を吐き出すことで、肺の中を浄化するイメージだが、実際には体内の炭酸ガス量の変化などにより、脳や細胞にも影響を及ぼすので、肺だけをどうにかするものではない。

普通呼吸は私たちがいつも行っているものだが、普段から呼吸法などの意識的な訓練を行っていない場合、肺の上部三分の一しか使えていないようである。肺は自力で動けないので呼吸筋の働きが重要な役割を担っているのだが、この一連筋肉の働きが上手くいっていないことが呼吸以外にも大きな悪影響を引き起こしている。

例えば、常日頃からヨーガの体操を含む呼吸の訓練を行っている場合は、胴体全体が呼吸という絶え間なく行われる活動の中で刺激を受けることになる。こういった練習を始めた方からは、「体温が上がった」「便秘が解消した」「腸の働きが改善した(腸閉塞などの再発防止など)」「腹が立たなくなった(感情が安定した)」「尿漏れしなくなった」などの感想を聞くことができる。

呼吸をしない人はいないので、呼吸を重視した訓練を日常生活の中で取り入れることが、想像以上に多くの恩恵をもたらすことをわかって貰えればと思う。

最もゆっくりした呼吸はプラーナーヤーマと呼ばれる。
何らかの形で息を止めている状態が含まれる呼吸で、インドの言葉で「プラーナ」という生命の気(生気)そのものの交換を行っている。このプラーナーヤーマでは空気を吸っているのではなく、呼吸の根底にある生命力をやり取りしていると考える。

ハタヨーガ・プラディーピカー第2章16節には、「プラーナーヤーマを正しく行じるならば、すべての病は無くなる。しかし、プラーナーヤーマを誤って行じると、あらゆる種類の病が生じてくる。」という記述がある。
調気法も体操と同じく禁忌があるので、自己流で行うことは避けて欲しい。