蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№322 修行に生きるのはしあわせか?

昨晩、ゼミナール同窓生有志とのオンライン飲み会を開催した。
読書会を兼ねてと思っていたが、薄々予想していた通り無理だった。とは言え、話題は多彩に展開されていき、非常に有意義な時間となった。

 
会の中である質問を受けたのだが、その問いは私自身の専門性やどのようにこの専門を活用していくかの根幹に繋がる問いであって、その夜の眠りの中でずっと「私は相当興奮している」と感じていた。
 

その問いとは、「隠遁して、修行だけの生活を送っているヨーガ行者は幸せなのか?」というもの。


このことに関わる文章を何かの本で読んだ。いったいどの本だったろうかと夢の中で考えていたのだが、朝起きたとき無事思い出すことができた。「ユング自伝」である。
少し長くなるが、引用してみたい。

「インド人の精神性には善も悪も等しく含まれていると私には思えた。キリスト教徒は禅を求めて努力し、悪に捉われてしまう。これに反してインド人は自分自身が善悪の彼岸にいると感じており、黙想とかヨーガによってこの状態に到達しようと試みるのである。この点に私は異議があった。つまりこのような態度では善も悪も本来の明らかな輪郭をもたず、ある停滞状態をひき起こすのではないかということである。正当に悪を信じもせず、正当に善を信じもしない。善悪はたかだか私の善であり、私の悪であるものを、つまり私にとって善とみえ悪とみえるものを意味することになる。つまりインド人の精神性は善悪ともに欠如しているとともに、しかも対立せるものの重荷を負って、『相対性からの離脱(エルドヴァンドゥバ)』を、対立せるものからの、万物からの解脱を必要としていると、逆説的に言うことができる。

インド人の目標は道徳的完成ではなく、「相対性を離れた状態」である。インド人は自然からの解脱を求め、したがって黙想のうちにイメージの消去した状態、空の状態に達しようとする。私はこれとは反対に、自然の、そして心的イメージの生き生きとした観照のうちにいつもありたいと望んでいる。私は人間からも、自分自身からも、自然からも解脱したいなどと思いもしない。」

 

ヨーガの理想的な流れに身を委ねるのであれば、壮年期までに社会的な義務を果たしたのち、隠遁して修行の生活に入るのだろうが、現に今起こっているような社会の混乱の最中に、年金受給年齢は75歳に引き上げられようとしており、川の流れに翻弄されるかのように浮き沈みする一ヨーガ教師に隠遁生活など夢物語である、ということについては脇に置いておくとしても、私はそもそも隠遁して解脱を願う生活を欲するのか。

  

そもそも解脱とは?ということも、スピリチュアリティというラインのなかで、個々により解釈が大きく異なるだろうと思う。伝統的な宗教の考え方には反するのかもしれないが、「解脱とはこれこれこういうことですよ」という状態を経験済みのこととして教え示してくれるひとは、そうそういないことになっているので、私も今の自分の真実のなかで自由に解釈して良かろう。

 

ヒマラヤの厳しい自然の中で草の根を食べながら修行する行者さま(とても真似出来ないので呼び捨てにはできない)は、自分一人の修行のためにすべてを捧げ、この世界で起こっている出来事を迷妄と言い捨てて興味すらないのか、それとも彼らの中のアートマンを通じて、私たち一人ひとりのなかにいるアートマンやこの世を支える力そのもの(ブラフマン)を支えてくれているのか。

もしかすると彼等はこの迷妄の世界(マトリックス)を離れ、ザイオンで本物の人間のために命を削っているのかもしれない。
 

ユングの文章に初めて触れた時には、自分の解脱のために修行ばかりするのは如何なものかな、と思い、自分は世界に参画する生き方を選ぶぞ、などと考えていたのだが、こうして考えているとだんだんとわからなくなってきた。

 

お釈迦様は悟りを開いたあと、弟子を育てる気はなかったと聞いたことがある。それをブラフマン梵天)が引き留めて、なんとか迷える人のために、堪えて教え導いてくれと言ったそうだが、このブラフマンの一言が、お釈迦様の悟りを一時的な状態から段階へと固定させたんじゃないかなどと思った。こんなことを言っていると怒る人がいそうだが、教師というのは教えることがあるから教師なのではなく、人と向き合い教えることを通じて教師になるのだろう。それでは、社会から距離を置いて達成される解放とはなんなのだろうか。

 

昨晩答えたものよりずっと曖昧な言葉になってしまっていると思うが、私が社会とか世界とかいう言葉で表現するものと、行者さまが世界と表現するものの違いは厳密にはわからないように思うので、簡単には結論は出ない。ただ私は、自分にとっての社会や、そこで問題とされているものに向き合う術として、ヨーガという手法を活用したいし、自分の生活に現成してくる問題を今ここでそのまま修行と思って生きたい。

ヨーガの道にある者の他者との関係性とは、目の前の人の中のアートマンを尊重することに他ならない。今回頂いたこの問いを通じて、個々の健全性を大事にしつつそれを尊重することと、自分が健全な批判精神を持ち続けることの大切さを感じさせてもらった。ずっと心に留めておき、折に触れて真剣に考えていきたい。

島田さんに心からの感謝を。

 

ユング自伝 2―思い出・夢・思想

ユング自伝 2―思い出・夢・思想