蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№321 ほんとうの視力

敬愛する師の著書の、改訂版が出版された。 

 
初めて会ったときから「先生と呼ぶな」と言われているが、自分の理解が十分に及ばない世界観を垣間見せてくれる人に、ほとんど出会うことができない今の世の中で、間違いなくまだ見ぬ世界を先に生きている人だと思うので愛情を込めて「先生」と呼び掛けている。

資格や立場などでもって「先生」と呼ばれているのとは違う存在が、私には数名いて、そのことを有難いと思うし、その方々に出会うために経験しなければならなかった事々を思うと、自分も良く耐え抜いてきたなと感じる。


今の状況の中で、直接会うことなしにコミュニケーションを図る手段として、「オンライン飲み会」というものが行われている。私も先週お声掛け頂いたのだが、非常に面白かったので自分でも主宰することにした。飲み会と言いながら真剣な意見交換になることがわかったので、「オンライン飲み会&読書会」として、復刊された師の本を肴に語り合うことになっている。

昨日、私の住む県でも初の感染者が出て、県知事の会見が話題になっていた。原稿を見ないで話す、などとバカバカしいことで評価されるなんて知事自身も思わなかったのではないか。今の日本の首長の程度の低さが、政治家の評価水準を下げてしまっていることを憂う。

この西日本の、更に山の陰と言われる地域から、遥々東京まで出向いて研究会に参加するのは実に大変だったのだが、今図らずも感染症のお蔭で、オンラインとは言え仲間と頻繁にやり取りできる機会ができた。これは有難い変化だ。

 

当時、研究会で提示された課題作品のなかに、映画「マトリックス」があった。
この映画の公開は1999年。昨日改めて視聴したのだが、東洋的な宗教観や量子物理学の知見が盛り込まれており、20代の自分にはただの空想アクションとしか思えなかっただろう。何度見ても考えさせられる映画だ。

昨年、「マトリックス・エナジェティクス」という本を手にして、これまでヨーガの世界を通じて学んできたこの世の霊的な側面と、物質というものの在り様のからくりを垣間見たような気がして、非常に興奮した。
映画の中でネオが銃弾の動きを止めてしまうシーンがあるが、この世の物質の在り様を決めていると「自分が思いこんでいる」法則に対して疑いを持つことで、世界の在り様が実際に変化してしまう。

マトリックス・エナジェティクスの手法は、ネオが持つに至った世界観を身体症状に向けて自らの治癒を目指すものだが、「その痛みは、本当はないはずのものだ」という考えを採用するだけで、多少なりとも自分の身体感覚が変容してしまうことを体感することができる。ただ、その「ものの見方」を継続的に保ち得るかどうかは個々の信念にかかっているので、手法を教えることよりも、信念の方を変えていかれるような教育的支援こそ、大事なのだと思う。

マトリックスの世界では、人のもつ生物エネルギーを「人が生きること」以外に活用されてしまっている。誰もが皆、手のひらからバイオ・フォトンというものを出しており、計測できなくても感じることはできるはず。この、人から何の努力も無しに出ているエネルギーを如何に活用するかを考えずに、それはエビデンスがあるのかとか、科学的に立証されたら活用できますね、などと言っている間に、映画と同じようにこの力を別のことに悪用されるような世界になってしまうかもしれない。

目に見えない、計測できない面を如何に感じ、生きるために活用していくのか、情報収集は程々にして自分のできる貢献方法を考えていかなければならないと感じる。

こうやって自分の書いたものを公開することに対して、以前は強い恐怖心を覚えたものだ。今となっては、その恐れは、自分がある段階の構造に絡め取られているからこそ生じる恐れだったのだと思う。振り返るに、この10年をかけて、私は今まで自分がいた場所の人々から否定され攻撃されるということを繰り返してきた。言わば、村八分になる経験を山ほど積むことで前に進んできたのだ。なんども泣いたし、色んなことが面倒になり死にたくなることも度々だったが、今ふと、世界の景色が変わっているのを感じる。気のせいかもしれないが、これまでの踊り場にいる感じとは違うような気がする。

もう一度夢の中でまやかしの肉を食べ、カネや名声を求めたいか。
ほんとうに見る目を持って生きることは辛いことかもしれないが、私はやはり本当の視力が欲しいし、自分が見ているものが虚構だとわかりながら生きたい。