蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№317 絶望

人生に向かい合う姿勢が変わってしまった時、私のなかに湧き上がってきたものを否定せず、認めてくださった方はほんの数人しかいなかった。

かつての自分は、「理想の私」になるために既存の枠組みの中で役に立つ手法を採用し、そこで必死に努力してステージアップして年収アップ、などという、誰にとっても分かりやすく人から賛同してもらいやすい目標をなんとか掲げていることができた。
しかし、今はもうそういうのはさっぱりダメである。そもそも理想ってなんだ。他の誰かの夢を、自分の無意識に刷り込んでいるだけかもしれない。

インテグラル理論に触れ始めた頃、わたしの視野は笑いが出るほど狭かった。柵で囲まれた職場で働く国家公務員だったから尚更だ。ドメスティックな職場で、ドメスティックなことにしか興味がない恐ろしい視野狭窄

ウィルバーの本を読むようになって自分の視野の狭さ、視点の低さに唖然としているときに触れたのが、映画「ホテル・ルワンダ」だった。こんなことが起こっていたのを知らずに生きてきたことが、震えるほど恥ずかしいと思った。
あれから何年も経って自分の眼がどれほど開かれたのかわからないが、自らが置かれている場で思っても見ないことになったとき、どうふるまえるのかについて考え続けてきたとは思う。

昨日、ある映画を見た。
原題 “Amen.”。2002年フランス・ドイツ・ルーマニアアメリカ合衆国の映画作品で、邦題は『ホロコースト -アドルフ・ヒトラーの洗礼-』(本にしても映画にしても、もっとセンスのある邦題をつけて欲しい)。ゲルシュタイン報告を遺した、武装親衛隊の中尉クルト・ゲルシュタインが主人公の映画だ。

そもそもこの映画を見るまで、私はゲルシュタイン報告のことも知らなかった。
ゲルシュタインは寄生虫駆除(殺虫剤)の専門家だった。その技能を重宝され、絶滅行為に深くかかわることになる。内部で実態を見た証人としてその場に居続けることを決めた彼は、中立国や連合国になんとかホロコーストについて知らせて阻止しようとするのだが、各国大使もキリスト教の関係者も、皆まったく協力してくれない。

映画のなかではバチカンにまで出向いて訴えるのだが徒労に終わり、共に行動していたカトリックの青年が絶望してユダヤ人たちと一緒に輸送列車に乗り込んでしまう。代々教皇に使える名門一族の彼を、ナチスも殺しはしないのだが、ゾンダーコマンダーの部隊に入れ死体処理に当たらせる。絶滅行為の最終過程までを知った彼は、収容所から出ることを拒否するのだった。

フランスで捕虜になったゲルシュタインは、後世に残る報告を書きあげるが、連合国側から「現状を知りつつ何ら対策を取らず」という評価が与えられたのを知り、獄中で自殺した。
1965年には有罪判決は取り消され、彼の名誉は回復させられたという点だけが救いだ。

この映画を見た晩、日本政府は国民の一世帯ごとに二枚のマスクを支給してくれる、というニュースが流れた。

国家、政府は何のためにあるのか。お金という道具は人を食い物にするためにあるのか。
こういった怒りを感じるのは私だけでないだろうし、大戦中に政治犯として検挙されたり、思ったことを口走って周辺住民から村八分にされたりした人も、同じような憤りを持っていたということなんだと思う。そしてこの国は、あの頃から何も変わっていないのか、むしろ退行しているのか。

虚しい中でも生きていかねばならないんだよなとため息交じりに思った時、規夫先生のツイートに、「今の自分自身の意識を呪縛してい『感覚」『常識』や『物語』や『枠組』がいとも簡単に溶解することを常に認識しているのが後慣習段階だ』とあった。

以前の私は、人のためと言いながら、深いレベルでは自分のために教えていたと思うし、自分の成長のために文章を綴っていたと思う。しかし今ここに至って、「発達はやむにやまれず起こる」ということが少し理解できるようになった。目立つ他者が掲げる何かに対して人と一緒に「すごーい!」と言い一緒に神輿を担げた頃も、心の底から満足していた訳ではないが少なくとも今より迷いは少なかったように思う。

この国の在り様に絶望しているが、それでもなお、なぜ今この場で生を与えられているのかについて考えていたいし、人をこの世に生じさせた何かは、いったい何をしろと言っているのか(それともなにも考えていないのか)観想してみたい。

インド人が輪廻の輪から解放されることを願う心理が、しみじみ理解できる春である。

№316 呼吸とハラ

心身に症状がある場合には、単純動作の反復に呼吸を組み合わせた運動が非常に効果的だ。

スークシュマ・ヴィヤヤーマといわれる、地味で細かい“微細な”動きのすばらしさを、最近しみじみと感じる。実際にやってみたことのある方はわかるだろうが、ヨーガの体操では、呼吸と動きが連動されることが何よりも重要になる。

どんなにカッコよくポーズをキメても、呼吸が疎かになってしまってはいけない(効果が出ない)。呼吸は自律神経で調整された非常にパーソナルなものなので、人と合わせることもいけない。
ヨーガを通じて人は自分自身とより親密になっていく。人に心を取り込まれたりしたくなかったら、自分の呼吸のペースをしっかりと守ることだ。

若い頃、軍隊のようなところで訓練を受けた。
号令調整といって、大声で号令をかける練習があった。決まった言葉を決まったタイミングで、決められているルールに従って発声していくことで養われる何かがある。そういった行為の積み重ねを通じて、一般的には尻込みするような状況の中でも決められた行動ができるようになっていく。それぞれの音にも微細な意味や価値があるそうだから、号令をかけることで内面が変容していくことは道理だと思う。
しかしヨーガでは全く違うものを目指す。
自分の心地よい呼吸を、自分自身の感覚で、身体と心の両面から探求していって欲しい。



10年ほど前、まだヨーガ療法士になるための課程に在籍していた頃、インドから来た研究者の指導で「呼吸の意識化」を学んだ。残念ながら先生の名前は失念してしまった。SVYASAのナゲンドラ博士※だったかもしれない。

その時、先生が言われた言葉がいまでも忘れられず、クラスでもいつも口にしている。
「呼吸の意識化が完全に出来れば、アサナは不要である」

ヨーガなのに体操要らないんですか?!と、当時の私は思った。
でも今になって、その言葉の意味するところが理解できた(と思う。10年後に今の自分の無知を笑っている可能性はある)。

昨年からご縁あって、理学療法士の先生とのコラボに取り組ませて貰っているのだが、この先生との協働により、学会が推奨する指導法から一歩踏み込んで、生徒さんを見つめながら選択してきた細かなノウハウに、理学療法的なお墨付きが頂けたのだった。

日本のヨーガ実習者は50代の女性が中心である。若い人は目立つだけで、人口分布的には非常に少ないらしい。50代の女性がヨーガ教室に来るのは、どこかに不調があるから。ヨーガなら、なんとか自分にもできるんじゃないかという気持ちと、自分の症状にストレスが関わっているという自覚があり、ヨーガでなら何とかしてもらえるんじゃないかと思って教室に来られる。もっとパフォーマンスを挙げたくて来る人なんて、いない。

そんな方々に、立った状態でバランスを取るようなポーズをさせたらどうなるか?
転倒し怪我をさせ、有害事象報告を挙げることになる危険性が非常に高い。
なので、すべてを横になってやって貰ってきた(仰臥位、伏臥位、横臥位)。
基本は仰向けでできるポーズ。

初めての方には「寝ててもできるから大丈夫です」とご説明する。初心の方はいびきをかいて寝てしまうこともある。こんなやり方でも、腰痛、不眠症不妊症、パニック障害、うつ症状、腸閉塞の再発防止などの効果を挙げてきた訳だが、「危ないから寝ながらやった」ということが実は効果を産んでいたとわかった。

仰向けになって呼吸を意識し、吐くときにはハミングを使用することを通じて、体幹部の筋肉をしっかりと使うことに繋がっていたというのである。理学療法的には「腹圧を高める」という表現になるらしい。このことを伺って、これまで得た知識が繋がって、一本の線になった気がした。

なぜ、ハラでしっかり呼吸をすると、心理的な不調まで改善し、腰痛は改善していくのか。
腹と心は繋がっているのだ。日本人なら感覚的には理解できると思う。
が、身体的に理解できていない人が多すぎる。これは大いなる損失だと思う。実にシンプルなことなので、もっと多くの人がこの呼吸を自分のものにできるはずだ。

呼吸は心の状態を変化させる。
そして深い呼吸は、深層の筋肉を使うことで為される。
自ら呼気を調整しようとする取り組みは、いつか自然な呼吸に浸透していき、無意識にゆったりとした呼吸が行われるようになるだろう。

呼吸を深く行うと、深層の筋肉により内臓が刺激される。呼吸により心地よく働く内臓は、脳へこれまでとは異なる信号を送るだろう。筋肉の働きにより、体温も上昇する。腸も動く。そして脳や神経も、これまでと違う反応をするようになる…。

こういった働きは無意識になされており、幼少時にそのパターンが決まっているそうだ。
物事に反応するパターンを、ヨーガの呼吸と動きは変えている可能性がある。

とはいえ、呼吸から始まる身体活動を、肉体のレベルだけで考えるのはやめて頂きたい。
ヨーガの体操には、「快適で安定していること」という絶対ゆるがせにできないルールがある。ラージャ・ヨーガの聖典「ヨーガ・スートラ」に書いてある大事な決まり事だ。

あなたは、ヨーガをしながら安心していなければならない。
安全だと思える環境を、指導者は準備してあげなければならない。そして「無辺なるものに入定する」と言われる感覚を生み出す手伝いが出来なければならない。

ヨーガは人から人へ伝えられる。あなたがヨーガを体得したと言えるのは、目をそっと閉じたらすぐに、周囲の環境がどうあれ自分自身のなかで安らげるようになった時だ。

この大事な目的のために、呼吸と深層筋の関連が明確になったことを、私は心から喜んでいる。



※ナゲンドラ博士
米国の航空宇宙局やハーバード大学で工学研究に従事していたが、1975年にその地位を捨てて祖国インドに帰り、バンガロール市にあるスワミ・ヴィヴェーカナンダ・ヨーガ研究財団(SVYASA)に職を求めた。SVYASAで長年にわたり主任顧問医師として行ったヨーガ療法の医学研究により、英国医学会から終身会員に列せられている

№315 見えないところの意識的な動き

コロナの関連で県外でのセミナー等はことごとく延期になっているため、先日はZOOMを用いた遠隔でのレッスンを試みたところ、ポイントを絞って指導することで、十分に効果を出せるという感触を得た。メッセンジャー等を利用して対話のフォローを密にすることで、実習者が体感できる変化も生じている。生徒さんに言語化を行って頂く事で、むしろ対面・単発のレッスンよりも有効なように感じる。
ただしこの言語によるフォローが、受講者・指導者共にハードルが高いかもしれないので、更なる工夫が必要かもしれない。

睡眠の質を上げ、リラクゼーションの感覚を体得することで、免疫力を上げることにもつながる。
ヨーガの動きは、目に見える部分以上の精妙なレベルにも働きかけることができるので、今のような状況だからこそ、生命の力を活性化していく活動を積極的に行って欲しい。指導者側としても、様々な伝達・指導方法を試行する努力が必要と思う。

さて、以前、アサナ(体操)しか教えていなかった頃は、毎日2時間から3時間も体操していた。その当時は体が面白いほど動いた。振り返るに、その頃は痛みを抱えて教室にやって来る生徒さんのお苦しみを深く理解できていなかったと思うし、多く動かなければ固くなるような体の使い方をしていたことが分かる。

「多く動かなければ固くなるような体の使い方」とは、外側の大きな筋群に頼る動き方であって、スポーツ選手の方にはそのような方が多いような気がする。けがや痛みで悩んでいる人には、特に当てはまるようだ。事実、私も過伸展で体を傷めることがあった。これは理学療法士の大石先生とのコラボにより理解し得たことで、先生には深く感謝している。

この度中殿筋を傷めてからは、体表面から触れることが難しい身体機能を内面から意識し、仰向けの休めの姿勢(シャーバアーサナ)のまま、肩甲骨周辺の筋肉と骨盤内の筋肉を対角線上で連動させて動かすような運動を行っている。ハンカチやタオルを洗濯した後、斜めに引っ張ってしわを伸ばすことと似ている。

部分的に体のどこかが固くなり拘縮が起きると、全体のバランスが崩れ症状が生まれる。固くなっているところが悪い訳ではない。結果的にそこに負担がかかったということなのであって、痛みや症状が出たときに、それを良い契機としてメンテナンスに繋げていくことが重要だ。

こういった静かな動きは、傍から見ていると寝ているだけに見えるかもしれないが、意識化の訓練にもなるし、他者の手を借りる施術で動かすようなところを自力でほぐすことができる。その部分で滞っている“何か”のバランスを調える感覚である。

いつもお世話になっている柔道整復師の先生はヨーガの先輩でもあるが、ヨーガを始めて間もない頃、施術中に「関節を通るプラーナの流れを意識するように」と指示を出されて、まったく意味が分からなかったことを思い出す。今はこれが理解できる。外側のカタチを気にするような体操から、内的なものを変化・変容させる動きへ、少しは進歩したのだろうか。

この内的な感覚について指導するのはとても難しいので、まず感じることを十分に学んで頂かねばと感じている。この感覚をつかむためには、呼吸の意識化の練習が役に立つ。
次回はその話を。

№314 ギックリ”道”  

 

武道館で腰が”ギックリ”してから、1週間が経った。
発症の二日後にはレッスンを再開したが、レッスン後は全身の違和感が全く無くなるのは本当に感動的だ。その後、座っていたり、一晩寝たりすると固さが戻ってくるので、完全に回復するにはもう少し時間が必要なのだろう。

結論から言うと、良かれと思ってやっていた普段の何気ない習慣がそもそもの原因だった。発症までに数か月かかっている。今回のことがなければこの習慣の悪影響に思い至らなかったと思うので、何かの重みで撓んだ枝が、これ以上曲がり切れずに弾かれて真逆に振れ、振幅を少しずつ小さくしながら本来あるべきところに戻りつつあるような感覚を覚える。

やるべきではなかった習慣について語る前に、突然だが茶室の中の状況をご説明したい。
茶道のお稽古=正座 というイメージがあると思うが、全くその通り。お稽古は最低2時間。足が痺れる人も多いので、お尻の下に入れる小ぶりの座布団がお稽古場に備えられている。
この写真のもので、サイズは22×22×13cmとのこと。

 

f:id:Yoga_Lotus:20200324170859p:plain

正座用座布団


 さて、普段私は座卓でパソコンに向かっている。正座だったり胡坐だったりだが、時間が長くなるとどうしても膝の血行が悪くなり集中力が削がれるので、そういえば!とあの「お尻座布団」を思いついた。ところが私は正座が苦痛でなく、我が家にお尻用座布団などないため、先生から譲り受けた上等の座布団を巻いて、お尻の下に突っ込んでいた。いわゆる「おばあちゃん座り」ってやつですね。踵がお尻から外れた状態で長時間座り続けてまず何が起こったかというと、骨盤底筋群の感覚が鈍った。

2月、理学療法士のO先生とコラボレッスンをしながら「腹圧」の感覚がピンとこない…と感じていたのだが、腰がギックリした翌日、腰は痛いのに骨盤底筋が以前のように力強く動かせる感覚が戻ってきたのだった。そこで初めて、これまでの姿勢のことに思い至った。

どの姿勢も悪くはない。この「おばあちゃん座り」も一つの体操としてなら、行っても良いし、何の問題も生じない。パタンジャリ大師はヨーガのアーサナ(座法)は「快適で安定していなくてはならない」と言っているが、座布団を突っ込まないと長時間座れないなんておかしいだろう、ということである。
 

突然来るので「魔女の一撃」と呼ばれているというギックリ腰だが、前兆は確かにあった。これまで生徒さんから「癖になる」と聞かされていたが、1回1回の症状の起因となるものも、発症時に腰という非常に広い範囲の中でどの部分がどうなっているのかも、まったく異なると思われる。

こういった病状で検査を行いレントゲン撮影をすれば骨が映るため(逆に言うと骨しか映らないため)、骨や関節が悪者にされてきた嫌いがあるように思えてならない。
当日は動作時にかなりの痛みがあるので、検査をした方がいいかなとO先生に相談をしてみたが、検査しても原因はわからないと思うよと言われて、通院するのは止めた。

そもそもじっとしていれば痛くないし、夜寝ていても痛みで目が覚めたりすることがないのだから骨に異常はないのだろうと思った。以前、胸骨にひびが入ったときは夜も眠れずに痛んだからだ。

 

骨を動かしている筋肉やそれにまつわるもの状態は、目で見ることが難しいため人はあまり気にしないようだ。腰痛には骨盤内の殿筋や底筋群が密接に関わっていると思うが、こういう部分を意識して感じることは、知識と訓練なしではなかなか難しい。

今回のことを通じて、どこから生まれ出でて来て、どこに辿り着くかもわからないに関わらず、小さなことを重大な悩みのように取り扱う“人”というものの習性を目の当たりにしたような気がした。例えば、「お金がない」と嘆き自らの不幸を呪ってみたりはするのに、今日も息を吐き出し新しい息を吸い込めるからこそ生きて悩むことのできる事実とその有難味を、日々改めて評価しないように。

体を通じて人が自らの内面と向き合い、自らの取り扱い法を体得していく過程のサポートをしている訳だが、今回の体験は非常に多くの気付きを与えられた。バガヴァット・ギーターの教え通り二極のどちらかだけを喜んでいてはいけない。人は経験する症状や病気から多くの恩恵を受けることができる。それは大事なシャドウワークにもなるだろう。

発症する日の朝に「インテグラル・スパイラル・リバーの、レッドやアンバーの水の中で皆と一緒に泳げ」と言われる夢を見た。自分としては、この夢と今回の症状を切り離して考えることはできない。夢の意味するところも、ずっと考えていきたい。

慢性的にどこかが痛い人と、くよくよ思い悩んで眠れない人のお力になりたいものだ。お一人でも多くの。
ギックリしたり痛みを感じることを通じて、これまで知らずにいた自分自身に出会えるのなら、これも一つの道といえるような気がしてならない。
ありがとう、”ギックリ”。

№313 ぎっくり腰に対する考察

 

*ぎっくり腰になったときのアドバイス
・普段、足がつるとパニック気味になるなど、痛みを客観視できない方は、すぐに病院に行って鎮痛剤の投与(注射)を受けましょう。痛みの記憶が残ると、慢性痛へと移行してしまうことが予想されます

・ご自分の肉体に対する意識化に自信がない場合は、病院に行った方が安心でしょう

・腕のいい理学療法士の先生、柔道整復師の先生、鍼灸の先生と、普段から仲良くなっておきましょう

・ストレッチは危険性を認識したうえで行いましょう。特に体の柔らかい方は危険です。ほんの少しのアンバランスが生じただけで、身体は反応します。

…………………

ある日のレッスンで、最後の瞑想の時間に仙骨が「カクン」いって後方にズレた。
その前の体操の際に右の大殿筋を過伸展した感覚があったので、そもそもの原因はそこだと思われる。

その後、体を前傾姿勢にすることができなくなり、自分で何とかしようとあれこれやってしまったがために、立ち上がって歩行しようとすると腰部に激痛が走る。


これはいわゆるあれか、ギックリ腰というやつか。
確かに痛い。これはトラウマになるわ、と思った。
が、病院に行っても治るまいと思ったので、静岡在住の理学療法士・O先生に知恵を頂くこうと電話をかけた。

体勢を変えながらしばらく休み、「腹圧」が少し戻ったところで移動すること、安静を保つこと、という指示だったので、利用していた県立武道館の事務室に状況を伝え、1時間ほどその場で休ませてもらった。武道館スタッフの若いお姉さんたちがとても親切にしてくださり、本当に有難かった。

そののち、スタッフのお姉さん二人に付き添われて、腰に手を当ててそろそろと移動ながら車に向かったのだが、そこで感じたこと。
健常者の歩行ペースは非常に速い。そして県立武道館はとても広い…
普段なら全く思考に上らないことが、心をよぎっていく。

こんなに痛い場合、救急車を呼んだりするのだろうかと思ったのだが、多くは家族に助けを求め、迎えに来てもらって病院に行くそうだ。
私もその手を検討してはみたが面倒だったので、車中で座ったまま呼吸を調え、アクセルとブレーキがちゃんと踏めることを確認し、覚悟を決めて自らの運転で帰路に就いた。安全確認のため周囲を見回す動作が如何にも不安定、というよりもなんだか不吉である。不測の事態が起こったら死んでしまうかも…という危機感を持ちつつ走行したが、なんといってもここは鳥取県。時速40キロ以下で前だけをみて走るおじいちゃん・おばあちゃんもいるので、きっと大丈夫。もしここが名古屋や大阪だったら、迷わずタクシーを呼んだ。

無事帰宅し、駐車場からLINEで娘たちに救援を頼んだが、次女は無視である。長女はすぐに出てきてくれたが、私の姿をみて可笑しくてしようがないらしく、満面の笑み。
そこで心に浮かんだこと。若者のはちきれんばかりの健やかさは、時に残酷なのだな。

娘に縋りよろよろと家内に入る。下半身の血流が低下し強い冷えを感じるので、ストーブの前に横になって海老のように丸くなる。ほっとしてそのまま寝てしまった。

こういった場合、普通は病院に直行だろうと思うが、私にはO先生という強い味方もあることだし、自分のもつ知識も用いて何とかなるだろうと考えた。
とにかく今日の所は安静にすることにし、大事な娯楽用の“積読”書籍をこの時とばかりに手に取る。多和田葉子の不思議な世界観と共に、人生初のギックリをしみじみと味わった。

№312 生き残れる人は

長い春休み、子供たちが映画をたくさん見ている。主にホロコースト関連のものだ。フランスのヴェルディブ事件に関するものから始まり、フランクフルト裁判や生き延びた人たちの話へ。それを傍らで見ながら、私は映画の原作や「アイヒマン調書」を読んだ。

ヒトラーを欺いた黄色い星」という映画には、4名のホロコースト・サバイバーの方が登場している。どの方も笑顔が素敵だったのが印象に残っている。
https://eiga.com/movie/88514/

彼等の体験は厳しいものだが、恐怖に満ちた日々の中で「守られている」「生き抜ける」「死にはしない」ということを感じていたことが語られている。
それらの思いにはなんの根拠もなく、日々は綱渡りのようだったのに。

彼等のそのような姿勢は、今、自分が掘り下げて考えていることと共通するので色々と調べてみたところ、2019年1月に配信されたこんな記事に出会った。

ホロコースト(Holocaust、ユダヤ人大量虐殺)を生き延びた人は、ホロコーストを経験してない同年代の人よりも長生きとみられることが最新の研究で分かったというのだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190119-00010000-clc_teleg-eurp

「生き残った人は他の人よりも遺伝子的・肉体的・感情的に有利な性質があり、より高い回復力を持っている可能性がある」と研究者は指摘しているそうだが、彼らがもともとそういう特性を有していたと考えるよりも、過酷な状況の中でも過度に悲観的にならないよう自分を鼓舞し、ただ淡々と日々目の前のことに向き合っていく中で、結果的にエピジェネティックな変化が生じたという見方もできるのではないか。

俗にいう引き寄せというようなことを、物質的なレベルでは信じないが(水がワインになったというようなことも、否定はしないがごくごく限られた人だけだろう)、懸念事項についてのヒントが向こうから飛び込んでくるというようなことは、頻繁に経験する。

なのでその懸念事項を、「自分はもうダメだな」という方向性で考えるのか、「どうやって生き延びるか」という方向で考えるのかでは、ヒトという物体に対する影響に大きく差は出るだろう。まずは細胞に、そしてエピゲノム変化にも。

ただ、生来”どういった傾向でものを考えるか”という癖のようなものは、簡単には変えることは出来ないので、そういう場合は、本能的な心身の反応を司っている部分(脳幹や迷走神経など)の働きを改変していくようにある種の努力をする(一定量の練習をする)必要があると考えている。

呼吸を伴う身体動作が、その為の鍵となる
実習時には十分に安全な環境で行えるように配慮することが大事だ。

ヨーガのポーズの多くが「動物の真似」であるのも、本能的な神経や脳の働きと関わっているかのように思えてならない。
 

№311 世界と向き合うパターン②

トラウマ的な体験が人に与える影響や、そこから回復する方法としてのヨーガ実践について考察したい。

いつも言うとおり、ここではアメリカ的なフィットネスの“ヨガ”は含まない。
トラウマ・ケアの観点から言うと逆効果、もしくは更なるトラウマに繋がる可能性を否定できないので、そういう目的でヨーガを活用したいと思われる場合、フィットネス・クラブのスタジオ・プログラムなどは決して利用しないで欲しい。ちなみに私も一度スタジオ・プログラムのヨガ・クラス受講の経験があるが、人と動作を合わせる、呼吸のタイミングを合わせることを強要され非常に苦痛であった。当然ながら、ひとりだけ別のゆったりした動作をして自らの呼吸のペースを断固守っていた。(他の参加者がどう思っていたかなど知ったことか!)

さて、伝統的なヨーガの身体的な動きから得られる利点については、以下のようなものがある。
まず呼吸を伴う動きであること。ゆっくりとした動きであること。目を閉じて自らの世界に入り、正しいか否か問われないこと。考えから離れ、何か大きなものとつながることを目指すこと。自らを客観視することが求められること。これらの条件がだいたい満たされれば、終えた後に深いリラックスの感覚が得られること、などであろう。

なぜこういった結果が得られるかというと、呼吸と動作をゆっくりと同調させていくことで、神経の働き(主に迷走神経)が調えられるからであろうと思う。世界と対峙する上で本能的に取っていた戦略を、改めて「今の」自分にとって益になるように改変していくためのきっかけが、そこでは与えられる。

 

これまで、「ヨーガ」を何のために教えているのかが明確でなかった。
楽になることは確かなのだが、いったいなにから楽になることを求めているのか。
エンパスと思われる人は5人にひとりいるそうだが、その条件を満たす人を思い浮かべると教室に来られている方の多くが該当する。自分が何かのレッテルを貼られるのはどんなものでも嫌なものだが、自らをより深く知るための道具としてなら、いったんそのレッテルを受け容れてもよい。

目の前にいる人から無言の圧力を受け、その空気に屈した経験のある人や、どうしても一人でいる時間が必要だと感じている人は、同じ仲間を見つけて自分と同じ感覚を共有している人がいることを知って欲しい。
この感覚は能力でもあるが、あらゆる能力と同じく諸刃の剣である。ぜひ、こういった人たちを支援する活動を立ち上げたいと思っている。

また、感受性の高い人にとって、ヨーガや武道のような心身調整プログラムは必須である。これは肉体のための運動ではなく、自らの存在を調整するためのエネルギー療法であることを理解して欲しい。肉体の変化はおまけとしてついてくるだろうが、それは目的ではない。