蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№223 受け容れること

今朝、非常に親しい友人との間で交わされた対話が、とても学び深く豊かだった。
数日前にある方が、Facebook投稿で「受容力」について書いておられて、その文章にも深く考えさせられた。
どうやら私の最近のキーワードは「受容力」ということのようだ。
あちこちから「受容」についてのサインが届いてくる。

知的な事柄と縁のなかった私は、身体的な活動を通じて智慧を与えられてきた。
他者や、自分の外部にあると思うものを”受け容れる”ということは、頭で理解してできることではないと思う。

腹の声に従って生きると、「他者の期待」なるものを裏切る顛末になることもあるが、自分に嘘をついて生きると大変なしっぺ返しを食らう。このしっぺ返しに比べると、人に批判されることなど何ということもない。自らの身体感覚を信じつつ、物事を進めていくのが大切だと思っている。人に理解されようと思ったりすると、腹の声が聴こえなくなるので、感覚器官(耳やら目やら)も良く制御しておきたい。

多くの人は、自分のものであるはずの肉体とも、感覚的に切り離されていることが多く、肉体があたかも「近くにいる他人」のようになっていることがある。
「その人(からだ)は、いったい何を考えてそうしているのかさっぱり分からない」という状態になっており、調子よく動かない場合などに「何とかして貰えませんか?」と他人(お医者さんとか)に丸投げしようとすることもある。

また、丸投げすると先方から様々な提案がある訳だが、自分の根っこと繋がっていないため、明確な答えのない選択肢に対して恐れをなして、心を決めることができない。
ヨーガ教室で、こういう方々に出会うことがある。

ヨーガは体操以上のものなので、こういう場合にももちろん対応をさせて貰う。
ヴェーダーンダやスートラに「心の健やかな在りよう」が明記されているので、繰り返しその話をして、最後は自分を信じるように促す。

自分の体なのに他人とは、なにやら矛盾した表現なのだが、ずっと前からそのように感じてきた。知らない人が何をしでかすかわからない恐怖みたいなものを、自分自身に抱いているような気がするからだ。これはかなり怖い状態だと思う。

悟りを開くとあらゆるものとの境界線は無くなる(らしい)。まずは、自分の肉体や心との境界を無くすような取り組みをしていきたい。

先日、渡辺謙さんが、これまでのご自身について「自分で何かを規定せず、設計図を持たず、『え、そんなことやらせんの?』というものに取り組みつつ、流れでやってきた。」と語っておられた。流れに任せるが、すべてを断らないということではないよ、と仰ったのが印象的だった。

腹に聴こう。それで失敗しても、自分を責めたりしないでいよう。
そもそも成功と失敗だけで物事を見るのをやめよう。