蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№224 目を閉じないとわからないもの

昨晩は合奏だった。

普通のお箏は弦が13本ある。
17本の弦を持つ大きくて低音のお箏もあり、そのまま「十七絃」と呼ぶ。
箏(13弦)2パート、十七絃、尺八での合奏。

この度の担当は「二箏」と呼ばれるパート。「一箏」より少し難しい。
昨日の合奏では二箏パートの人数が少なかったので、バランスが悪かった。必死で大きな音で弾くよう努めた。

この曲を始めて弾いたのは平成24年5月、と楽譜に書き込みがある。
先代のご宗家が作曲された、流儀にとって大事な曲であり、試験の科目でもあるので、本部定演も含めて何度も演奏してきた。

途中で転調があるため、弾きながら、歌いながら、4つの琴柱(ことじ)を動かす。
これがなかなか難しい。
転調に気を取られると手(演奏)を間違えそうになるし、4つの柱(じ)をどの順番で動かしていくかということも、曲の流れの中で決めて行かねばならない。

まあでも、この曲は何度も演奏してきたので…
今、三弦では「越後獅子」を稽古中。
後半の「散らし」と呼ばれる部分が、滑らかに華やかに弾けるよう、繰り返し練習している。

先日、師匠や姉妹弟子と「お箏と三弦のどちらが好きか?」という話になった。
お箏は大きくて持ち運びが大変なので、演奏会に出るには三絃がいいという意見や、始めから三絃がしたくてこの道に入ったという方も。

私自身は華やかな筝が好きだが、最近少しずつ三絃の魅力にも目が開かれてきた。
三絃の稽古を始めた頃は、とにかく難しくて、ツボが取れずに泣きそうになったこともあった。左手でツボを押さえ、右で撥(バチ)を扱う訳だが、最初はこの撥が上手に扱えなくて大変だった。

撥は、押すように弾く。
3本の弦を手前から弾いていったときに、自然に手首を動かすと、弧を描いて下方に向かうことになりますよね?
それを、まっすぐ前に出すように、押していかねばならない。
始めはそれが出来なくて苦労したなあ。
また、バチを弾く位置が下がるとヘンな響きになる。今もうっかりすると師匠に、「バチ(が下がっていますよ)」と声を掛けられる。

「体得」は頭で勉強してもできるものでなく、時間が必要。
でも逆に、時間をかけて努力すれば…という希望もある。
ともかくいつも、目の前の曲に取り組むだけ。

茶道や筝曲が、ヨーガ指導に大いに影響を与えていると言って下さる方があるが、自分では正直言ってよくわからない。
ただ、筝曲は視力を持たない方の才能が遺憾なく発揮されてきた分野でもあり、感覚器官(特に目)の働きが、未知の能力の発芽の機会を奪っていることを思い知らされるということがある。目がお見えにならない方の演奏を聞かせて頂くと、筝曲の世界では目が見えることが足かせになる、と感じたものだ。

なので、ヨーガ実習でも、目に頼らない豊かな世界を、自らの感覚で感じて欲しいという思いが、他の先生よりは強いかもしれない。