蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№366 ひとことだけ言うとすれば

「何時の敵は汝の力を侮り、聞くに堪えぬ悪口雑言で罵るだろう。これほどつらいことが他にあろうか。」バガヴァッド・ギーターⅡ-36

 

 

自分が感じていることを“観察者”が冷静に見ているのは、感情を抑えることとは違う。

 

ネガティブな情動経験の抑制を試みると、大失敗に終わる。
大脳辺縁系が興奮するからだ。

 

なにかを感じないようにしても効果はなく、それが裏目に出る場合さえある。
自分に対するいら立ちを抑えようとしても、かえって不安を感じるだけなのだ。

情動の表出を抑えようとすると、出来事を記憶する能力が低下する。
抑えることに必死で、今この瞬間に注意を払うリソースが減ってしまうからだ。

また、感情を抑えて表さないようにしようという努力は他者を不快にさせる
感情抑制は受動喫煙のように他人に影響を及ぼす。
心地よくさせたい相手を、逆に不快にさせてしまうことになってしまうことになり、結果的に関係性に影響が出ることも考えられる。
良かれと思って堪えたのに、自分が不利益を被る結果になるなんて悲しすぎる。

 

実はヨーガの体操は、こういったことの対処訓練にもなるのだ。

体操をあれこれやっていくと、自分が想像するようにはからだが動かないことに気付く。
そういった場合、初心者の方はどう反応するかというと、
・周りを見る(人と自分を比べる)

・できない自分を笑う

・声に出して何か言う(「なんでー」「できないー」など)

 

練習を重ねてこういう自分をそっと受け容れて頂き、「できない」という状態を十分に感じ切ること、そしてこれを言語化することを通じて、プレッシャー下でも冷静を保つ能力が育つ

からだを支配的に使うことに多くの人が慣れてしまっているが、肉体は存在のひとつの部分として、協調して動いてもらうべき大事なパートナーであることを忘れないで欲しい。

からだを動かすと、その動きがいったん止まる(つかえる)ところがある。
つかえるのを感じて、素直に止まる。
静かに呼吸しながらじっとしていれば、必ず緩む。
緩んだらさらに動く。
力を入れて押さえつけていく行為とはまったくちがう。

何度もこれを繰り返していくと、心身の可動域が大幅に広がっていく
こころの側も、「しばし待つ」ことに耐えられるようになるからだ。

ヨーガの体操をからだのことだけと思って行っている人は、実にもったいないことをしている。

「この部分が伸び切らない」「難しい」「つらい」などという感情を喚起させる動きを時々に取り入れてアサナ(座法・体操のこと)を行い、終えた後は内省をして、体験を言語化する。

ヨーガ歴が進んでいくと、この身体感覚の言語表現が実に豊かに、そして的確になっていく。


そこに到達した方々は「どうしたらいいですか?」という問いを必要としない。
「私の心身が、いま、何を望んでいるか」を聞き取ることができるので、自らに対する深い愛情と確信をもってそのことに取り組みさえすればよいからだ。

これこそがヨーガのもたらす智慧である。
自分のなかから湧き上がる洞察。

情動の感覚を特定する適切な言葉を見つけようとすることで、前頭前皮質大脳辺縁系の興奮を鎮めることができる。
言葉にして語ろうとするとき、扁桃体の活動が少なくなり、右腹外側前頭前皮質が活性化する。ここは脳のブレーキ機能の中心となる部位であり、あらゆる種類の抑制を司る。

自分の感情を口にすると、感情をさらに悪化させるという誤った予測によって、多くの人々が自分の感情を語らずにいる。
これは人間性に関する誤った思い込みだ。

興奮を和らげるには、情動を少ない言葉で言い表す必要がある。
象徴的な表現を使うほうがよい。間接的な比喩、単純化した言葉で。

クラスでは、実習のあとに自分の内的な変化を一言で表現することを必ず求める。

「気持ちよかったです」という表現はNGである。
今日、あなたは、どんな風に気持ちよかったのか、それを尋ねる。
これに抵抗感を示す初心者の方は多いが、非常に重要な訓練だということを理解して欲しい。

ヨーガの体操とは「姿勢」に他ならない。
ある姿勢でじっと佇み、内面で蠢くものすべてに光を与えようとする行為である。
そこにあなただけの洞察が生まれる。

私たちの内面は実に深く広いので、生きているかぎりこの行為に終わりはない。
ヨーガとは生き方である。