蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№396 道はひとつではない

「一切に遍在し、一切万有であり、一切の存在物の心臓のうちに宿り、一切の認識の対象を超越している、この一切を知る純粋精神(アートマン)に敬礼する。」ウパデーシャ・サーハスリーⅠ第1章-1

 

 

ヨーガ究極の目的は moksha である。
これは捉われからの解放を意味する言葉だが、ではその捉われってなんなの?という話になると、こちらもまず「ではあなたって誰ですか? Kas tvam asi 」と聞くところから始めることになるので、ややこしいからここでは避けておきたい。

とは言えこの質問に “Tat tvam asi” とすかさず返してきそうな友人Sが仙台にいる。
これは直訳すると「あなたはそれだよ」ということで、梵我一如の境地を示す言葉である。

では梵我一如ってなんだろうか。
どうやらふだんみんなが「私」と言っている「私」は、実のところ私じゃないらしいのである。ああ、なんとややこしい…

ヨーガという言葉は統合を意味し、語源は馬を軛につなぐという意味のyujから来ている。
本当の私と、私だと思っているが実は私ではないところのものを、ひとつの状態に戻すのがヨーガということ。

なので、元来の意味で「ヨーガしてます」と言うと、

「私の心身は完全にひとつのものとして調和しており、しかもこの世界を支える力と私は同一のものだと気づいています」

ということになる。
それは凄い! 実に羨ましい。

しかし現代の世間的には「ヨーガしてる=ポーズキメてる」という意味のようだ。
こちらの方の究極の目的は、からだを柔らかくすることなのだろうか?

 

代表的なヨーガの流儀には4つある。目的はすべて同じである。

知識を通じて探求する智慧の道(Jnana)
神聖なるものへの信仰を通じ探求する愛の道(Bhakti)
自らのすべての行為は、至高の存在によるものだとの認識をもつ行為の道(Karma)
意識を内面へと向ける訓練を通して、調和を追求する王道のヨーガ(Raja)

肉体を通じて究極の目的に向かうハタ・ヨーガが、インドにおける4大ヨーガには含まれていないことを知っておいて欲しい。

 

ヨーガの体操は実に効果的で、私も超初心者の時はその効果に心奪われこの道に足を踏み入れることになったわけだが、どこまでいってもヨーガは単なる健康法ではない
ヨーガ教師はそのことを、どんな初心の方にもお伝えする義務がある。

なぜならば、肉体の問題が解消したとき、究極の目的に開かれていく方がおられるかもしれないからだ。
そういう方々が決して迷子になって困ることがないように、私たち教師は一般の教室の門戸を開いて待っているということを、決して忘れてはならない。

ちなみに、インド伝承医学であるアーユルヴェーダ(Ayurveda生命の智慧は、ヨーガとは兄弟関係にあると言われ、ヨーガを教えるものは、必ずアーユルヴェーダの知識を有していなければならないとされる。
アーユルヴェーダとは、日本でいうところの漢方のようなものだと思ってもらえばよい。

肉体の苦痛はアーユルヴェーダで、そして精神の苦痛はヨーガで取り除く。
ヨーガは自分で情熱をもって歩んでいく道だが、アーユルヴェーダは人に委ね、任せる。

私もそろそろアーユルヴェーダの施術(Abhyanga)を解禁しようかと考えている。これはオイルを塗布することを意味しており、要するにマッサージのようなものである。

対極にある手法をもせっかく学んで来たのだから、ただ触れる、ということを通じて誰かのためになってみたい。
受けてみたいと思って下さる方があるといいのだけれど。