蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№450 いきることは波のよう

ヨーガ・スートラという本がある。
ヨーガの先生でこれを知らない人はモグリである。
あなたもご自分のヨーガの先生に「ヨーガ・スートラでは、ヨーガの目的はなんだと言ってましたっけ?」と聞いてみよう。

「お、いい質問だね! “yogaḥ citta vṛtti nirodhaḥ” だよ!」と返してくれるはずである。間違いない。

 

ヨーガハ チッタ ヴリッティ ニローダハ yogaḥ citta vṛtti nirodhaḥ
ヨーガとは心の働きの止滅である、ということ。
ここでいう心とは「心素」と私たちが呼ぶもののことを示している。

心素(チッタ)は、真我(ほんとうのわたし)のそばにある、過去の記憶が詰まったきんちゃく袋みたいなものだと教わった。この心素のそばには、もうひとつアハンカーラというものがあるのだが、これには「我執」という素晴らしい訳語がついている。「この世にたった一人の自分というものが確かに存在しているという錯覚」のことである。

あー、ほらまた話がややこしくなってきたよ。
ほんとうの私ってなに。

禅の例え話はとてもわかりやすい。
ほんとうのわたしというのは海。大きな海みたいなもの。
他の人とは別だと思っている私の方は、波。一つひとつの波。
海がないと波はない。自分は海であることを忘れて、「私はこの世に単独で存在している波なんだ!」と思っていたら苦しいだろう。

「魚、水を知らず。鳥、空を知らず。」ということを道元さんが書いておられるが、それも似たようなことを教えてくれていると思う。

ここに切り離されて存在していると思っている私が、過去の記憶という素材を、切り離された自分の考えで解釈して苦しがる。水の中でしか生きられない魚が、水の中にいることを知らずに、水が無くて苦しい!と思うかのように。
これが、滅するべき心の働きである。

 

あ、水の中にいたんだ、始めから。
と気付いたら、素材をどうこうしようとする「切り離された私」というものが消える。

私は海であり、また波である。
波の私が見た鳥や感じた風の記憶を、そのまま心素という袋に遺していってそっと大事に持っているだけでいい。
切り離された私というものがあるのも確かだが、大きな海の中に存在しているとわかって、安心して波でいればいい。

 

ときどき波は荒れて、きんちゃく袋の口が開き、色んなことを思うかもしれない。
心の働きが滅せられるとは、波がなくなることではないと私は思う。

ほんとうの私の視点を得たときに、すべての波を広く捉えられて、凪いでいる海と荒れている海が同時にあると知ることだと思う。

ヨーガの体操(アサナ)を終えたあと、肉体から生じる至福の感覚の中で、この、高いところから海を見る感覚が得られていると思う。それは一瞬の体験かもしれないが、私たちが体操を始めとするヨーガの手法を用いて、いったいどこを目指しているのかは理解できるだろう。

 

だから小波のままで、身体や心を支配しようとしてはダメ。
がんばりすぎてもダメ。嫌なことや痛いことをからだに強いては絶対にダメ。

苦しいことをしなくても、小波としてのあなたの体や心は楽になれるんですよということを、一緒にレッスンをするあなたにそっと伝えたいと思う。言葉以外のもので。