蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№192 読みまくり、書きまくる

雨の朝。
瞑想していると肌寒さを感じた。

ここしばらく、日常を瞑想と捉えるために、「座る」瞑想を修行会以外ではやっていなかったのだが、瞑想合宿以来、私もあえて座る形の行を再開している。
やはりいい。

いつも家に一人でいることの多い私は、普段から中庭に面する台所に陣取っているのだが、瞑想もここでやっている。
家族は私の行動に慣れており、家人が在宅している時もここで座る。

家人の内、歳が上のふたりは気遣ってくれるが(でも台所は使う)、下の娘は全く意に介せず声を掛けてきたりするので要注意である。これも修行のうち。

瞑想を始めた頃から不思議に思っていたが、座っていると猫が寄ってきて、体を触れ合わせて寝るのだ。マントラを唱える時も反応するし、人間が鈍らせてしまった感覚をしっかり保っているのだと思う。ヒトの身体実践は、この感覚を取り戻すことでもあると思う。



ゼミナールの補助音声を聞きながら事務作業。
猫が膝の上に乗ってくるのだが、その場所決めでひと悶着あった。乗せてやっているのに抗議されるのは釈然としない。

さて、ゼミナールの音声だが、全152回なのにまだまだ全然聞けていない…。

講師の加藤さんや、受講生の方のYouTubeチャンネル視聴を優先していたが、一覧表もお作り頂いたし、チェックを入れながら順々に聴いていこうと思う。

先程聴いていたものがあまりにも刺激的なので、ブログを書きたくなってしまった。これは何回でも聴いて、文字起こしをして瞑想のクラスで語りたい。

「読んで読んで読みまくる、書いて書いて書きまくる」
統合的な枠組みで世界を見るためにはどうしたらいいか、についての実践法として、この二つが非常に重要だと。

昨年秋にブログを始めるまで、日記と講義のレジュメしか書いていなかったなあと思い返す。ブログでは、毎日1000字を超えるように書いてみているのだが、単純に計算すると1000字書いて10日で1万字。約3ヶ月で10万字。
日本語の10万字は大したことがないそうだが、それでも何にも変わらないということはあるまい。今でも物事の捉え方が多少変化した感覚はあるが、この感覚はこれからどう変わっていくのだろう。楽しみだ。

瞑想を座った時間数(量)で評価してみる向きがあるようだが、最終的には「生きていることが即ち瞑想」にならなければならないので、座った時間だけでは分からないと思う。

瞑想によって脳に変化が起こるそうなので、画像を取ったら簡単にわかる時代が来るのかもしれないが、それはそれで味気ない。
「あなたの扁桃体の働きは全然沈静化していませんね。一体どんな瞑想してたんですか」などと叱られたら、堪らないではないか。ストレス下での自分の振る舞いを内省することで、自分で自分の瞑想修行を省みる方がいい。

ちなみに、様々な瞑想法でそれぞれ影響される脳の部位が違うらしい。あれだけやることが違うのだからそれはそうだろう。いくつもの集中法、瞑想法、体位法(ポーズ)を教わってこれて、本当に良かったなとしみじみ思う。

人生で初めて書きまくったのは、ヨーガ教師になる時だった。
あの時の課題に取り組むことで、人生が変わってしまった人は多いように見受けられるが、「書くこと」自体が大事だったと知っているヨーガ教師はどれだけいるのかなあ。