蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№265 意識的に

こんな夢を見た。

大きな宴会場で、みんなが大喜びして何かをお祝いしている。
宴会場はホテルのようなところではなく、食堂のようなところ。
(想像がつく人がいるかわからないが、自衛隊の隊員食堂のような。床はコンクリートでいくつものテーブルが並んでいる)

その人波に後から加わって、えらいこと盛り上がってるな~と思いながら様子を伺う。
背の高い男性の後ろから、人の輪の中心を見ようとするところで記憶は途切れた。


さて、本日は米子での瞑想講座だった。
量子力学の、ものすごーく簡単な本を題材にして、ヨーガの教え「この世は迷妄である」「二極の対立を超越せよ」「結果に対する執着を捨てよ」について考察した。

ヨーガの体操の際には、「意識化」ということを非常に大事にする。

ヨーガを行じていって最終的に辿り着きたいところは ”解脱” Mokshaの境地である。
凡人はそこまでは行けないにしろ、「天上天下唯我独尊」の心境には至りたいものだ。
この境地を別の言葉で表現すると、PTG(心的外傷後成長)の状態と言えるし、バカボンのパパだと「これでいいのだ」、私流に表現すると「なにか文句あるか」の境地である。

意識化の活用法は色々あると思うが、大事な点の一つは「自分で決めて、動く」ことだと思う。

人は無意識に、他者の指示に従って生きていることが多い。
自衛隊のような「命令に従う義務」なんてないのに、誰かが言った根拠のない言葉に縛られて生きている人は実はすごくたくさんいる。従っている訳ではなく、拘りをもってしまうことで縛られているのだ。

教室では「自分がどのように感じているのか」をしっかりと感じ抜いていくことが大切。嫌だなと感じたり、気が進まなかったらやらなければいいのである。
気持ちよければやる。やりたいからやる。

「右手を上げて」と先生が言ったからやるのではなく、「先生が言ったことに従ってみることを、私が決断した」からやってみるだけだ。

そもそもヨーガ教室で、先生の真似をしたりする必要は全くない。
『自分はどれだけ自分の感覚を感じているのか?=どれだけ自分の事を知っているのか?』という、「自分センサー」の感度をどんどん上げていくことこそ”ヨーガ”だと私は思っている。

意識的にやる。意識的に歯を磨く。意識的にものを口にする。そこに”いる”ということに対して、意識的である。
形だけ座る瞑想よりも、今、十全にここに存在していることの方が、私の在り様を変える。そう思っている。