蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№303 瞑想は座って行うものなのか

“ヨガ”というものはまあまあ世間に認知されているので、「ヨガやりましょう!」というだけで、なんとなくクラスができたりする。しかし、そこが「だれのための、なんのための場なのか」ということは、あまり考えられていないことが多い。

資格を取ったので教えるよ、というような場合もある。
それはいったいだれのためのクラスなのかというと、“教えたい人のため”だったりする。
だれのためにその知識・技術を使うのかを考えて運営されている教室は、この世にどれほどあるだろうか。医療や教育の世界でも、同じようなことが起こっているのかもしれない。

ヨガ(本当はヨーガ)の目的は、ヨガ語で表現すると「解脱」である。
これをこのまま生徒さんに言ってみたら(さあ、一緒に解脱しましょう!)、きっと二度と来ないだろう。ではこの「解脱」という言葉の心は何か?。

ヨガはポーズを取るものだと思い込んでいる人もたくさんいる。
ではなんのためにポーズをとるのか。
これも解脱のためである。

解脱というものに至りたいがゆえに、その直接のアプローチ法である「瞑想」をできるようにならねばならないので、まずポーズというもので準備をするわけだ。

では、「いまあなたが“苦しいと感じているもの”を手放すことができる方法があるとしたら、知りたいですか?」と聞かれたらどうだろう。

瞑想をすることにも、ポーズをとることにも、目的があって欲しい。
座れば、ポーズを取れば、どうにかなるわけではなく、あなたがこうなりたいといま思い描ける状態に移行するためのヒントを手に入れたい!ということを、世界に対して表明する行為のひとつがヨガなんじゃないかな。自分が自分だと思っているもの(肉体など)と、本当の自分と、世界のあらゆるところに満ちている知性とをつなぐのがヨーガなのだから。

この場合の“世界”というのは、目では見えない部分(微細、元因)を含む。
目に見えている世界なんて、ほんのわずかしかない。

いまがどんなふうで、
それを自分自身がどう評価していて、
そこにどんな感情があって、
からだにはどんな感覚があって、
最終的にどんなふうになれば自分は「楽だな」と感じられるのか。

解脱という言葉を、すごく分かりやすく表現したら、
「え、そういうことだったの?! なーんだ、じゃあ大丈夫だ。」
という気分かもしれない。

だから、静かな場所にじっと座ったり、どこかに籠ったりすることで瞑想を習ったりしなくてもいい。心の底から安心できる方法を知って、いつでもどこでもその心持ちが再現できるようになった時、瞑想したと言えるのかもしれない。

そのとき、あなたの行うあらゆる活動が瞑想になる。
どんなに哀しいことがあっても、自分というものを愛おしんでいられるようになる。