蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№193 意思と意志についてめぐる思考

イシについて考えている。

意思 何かをしようとするときの元となる心持ち
意志 意識的,計画的または自由選択的な行動を意味する

知らなかった…。意志には行動が伴っているのか。
ではイシ鞘(マノーマヤコーシャ)はどっちなのだろう。

mano-maya-kosa =マナスからなる鞘。
manas =広い意味での心の働き。意。心。

まず思いありきで行動が生まれることを思うと、意鞘と表記するのが相応しいような気がする。

さて、今朝方は随分とリアルな夢を見て、かなり書き留めることができた。
「よーし!夢を覚えておくぞ!」という意思が不足しているのかもしれない。

人間の行動は顕在意識から生じているものは少ないだろうから、シャドウを理解するためにもやっぱり夢を意識することは大事だな。シャドウを意識することは、自分の潜在意識(という言葉があまり好きではないが)を理解するためにも大事な取り組みになる。
今晩から、寝る前に「よーし、明日の朝は夢を覚えとくぞ!」と言ってから寝よう。

起きている時にも、自分の心がどのように働いているかを知っていくのはとても大事だ。
瞑想などの取り組みをしたことがない人は、自分の頭の中で常に言葉が飛び交っていることも気付いてない場合が多い。
それなのに、実際に独り言を呟いている人を見るとギョッとしたりするのだ。

体操に比重を置いたクラスもあるが、そのクラスで「頭の中で他のことを考えながらポーズをとったり、今の自分の様子を平静に観察できないのだったら、それはヨーガじゃやないですよ」と言ってみた。

クラス終了後に伺ってみると、「ずっとぐちゃぐちゃ考えてた」とのことだった。
そうしたら、それはただのエクササイズだねぇ、と笑ったものだったが、体で感じること、頭の中に浮かぶことを、ポーズと同じように意志で扱えるようになってほしい。

「考えてる」人は肩凝りが多い。
想像してみて下さい。
考える →眉間にしわが寄る →頭皮が固く締まる →血流が滞る →頭~肩の血行が悪くなる →肩がこる (更に進むと…  →頭痛くなる →吐き気がする →吐く)

こんなに単純なものばかりではないことは私も分かっているけれど、単純な範疇に入る人も多いと思う。吐くまでいく人の忍耐力って凄いなあと思うけれど、そっちの方向に頑張らなくてもいいんじゃないか。なにかしら目先の変わる行動を取って欲しいものだ。

ここのところずっと、人の思考や意思について考えているので、トンデモ本かもしれない…と思うものも読んであれこれと行き来を繰り返してみると、「ああっ!」というような気付きが降ってくる。すべて部分的に真実を含んでいるんだもの。これは当然か。

人間のイシ鞘は、歓喜鞘の下部組織になる。よく使われる図ではそんな風に見えないけれども、歓喜鞘は生命原理を内包している部分なのだから、本当のところは含まれているはずだ。

しかし、歓喜鞘の働きが「自我・記憶」でブロックされていると、下部組織であるところの他の鞘は勝手な判断で暴走してしまうということか。

人間存在はそもそも喜びに満ちたものであると、絶対に思い出すぞ!、と心に決めて生きたらどうなのかな。

「そんな甘いもんじゃないですよ」という向きもあるかとは思うが、そこはバガヴァットギーターの教えに則って「あっちがいいとか、こっちがましだとか言わない」生き方を貫いて、無為にならずに淡々と行為する。

死ぬ間際、もしくは死んだ後に「いや~、バガヴァットギーターはホントに役に立ったわ」と思っても、誰にも伝えられないので、私は騙されたと思って、この方式で生きてみてあの世で検証しようっと。