蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№67 不断の瞑想

遠征に行っていた娘が帰宅しました。
初日の戦果は7勝2敗2分、初日後半から集中力が途切れ、二日目は勝てず、とのことでした。しかしこんな勝ち数は初めてです。よく頑張りました。

さて、昨日は講座日でした。昨年から「瞑想講座」なるものを行っているのです。
日常の中に不断の瞑想を行き渡らせるために、参加者の皆様と共に私も学びます。
ヨーガの目的は、人の中に内在する潜在的な能力を開花させることですから、その為にヨーガという道具を活用する術を研究しています。

昨日はアーユルヴェーダを取り上げまして、個々の体質を理解することや、同じ肉体は一つとしてないので(魂が人の数だけあるように)自らを良く知り、自分だけの養生法を築き上げていきたいということ、また、肉体を清浄にしたのちにヨーガのような霊的な修行が始められることなどを学びました。
アーユルヴェーダの治療は浄化療法ですので、精神的な浄化法としての瞑想やマントラ詠唱などを実習して頂きました。
皆でマントラを唱えた後の室内の空気感の違いには、初めてご参加の方も驚いておられました。

昨日は特別に体験参加の方がおられたのですが、姿勢や顔色、声の発し方などが、4時間の講座やその後の懇親会で皆さんと一緒に時を過ごすにつれ、変化していくのが見て取れました。それを感じたのは私だけではなかったようです。
ヨーガは肉体という目に見える粗雑なものを何とかするためのものではなく、微細な気が変化します。初心の方が加わって下さったお蔭で、この微細なものの変化を皆が感じることができました。

このような新しい取り組みを始めたことで、昨年は「これでいいのか」と激しく苦悩したのですが、此処に至って漸く「これでいいのだ」と思えるようになりました。
自らの悩みを克服せんとする中で出会った、師や教えに確かに救われた、そのことを私の言葉でお伝えしていくだけです。
この確信に至るまでの苦悩も、避けては通れぬ必要な経験であったと思います。

すべて物事には機というものがあるのだと思います。
私の好きな言葉に「」というものがありますが、生まれたいという思いと、それを手助けしたいという思いのタイミングは同時でなくてはなりません。
もがき苦しんだ娘が勝ち星を挙げることも、「今」でなくてはならなかった。それをもっと早くと外から刺激を与えてしまえば、卵は割れ、雛鳥は死んでしまうでしょう。
苦しまない方法があるよ、などという世迷言には乗せられないよう、不断の瞑想を施しつつ生きていかねばです。