蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№64 影を見出す努力

本日は行きつけの書店カフェの開店と同時に、友人と待ち合わせをしました。
同じ活動を共にする仲間でもある〇さんとは、定期的に会って対話をするようにしています。

会話の内容は日々取り組んでいることの気付きや反省などであって、それぞれがどのような思いで生きているのかを真剣に語り合うのですが、今日のテーマは「如何に自分の心の影を、自分自身に引き戻すかが課題だ」ということでした。

思えば20年近く前に、河合隼雄さんの本で初めて「影」の概念に出会い、自分の中にある暗いものと向き合いたいとは思いつつも、そんなことは簡単に一人でできるものでもなく、「自分というもののことが分からない」とずっと思っていました。
病気を経て、セラピストの先生の下で、手を携えて貰いながら少しずつ自分の影と向き合うようになり、更に、ヨーガを学び始めてからは、毎月の宿題で自分の過去のこだわりを一つずつ自己分析していくと共に、それを言語化して師に読んでもらうという実践を行いました。文章に、しかも師とは言え人に読まれるための書くということを行いますと、高度に客観視が進むと言いますか、恥ずかしくて堪らないが実際にあったことであるのは間違いなく、諦めと共に笑いが出る、という体験を繰り返します。笑えてみるとしめたもので、師以外にも話せるようになってしまいます。フルオープンになった心の闇は、もう影ではないのでした。

影は隠れているからこそ悪さをするように思われるのであって、白日の下に晒してみると、ほぼどうといったこともなく、ほとんどが、寂しいとか優しくされたいとか、不安から解放されたいなどという至極真っ当な人としての欲求なのです。(もちろんそれだけでは済まない影もあるはずですが)

ヨーガで行うヴェーダ瞑想は、繰り返し、人の心の奥にあり、存在自体の光を遮っているこの心の素を探っていきます。日々生きる中で生じる様々な印象が、この心の素を納める袋に積まれていきます。そして、何かを思う時に、私が自分の事をいかに解釈しているかという「自我」の思いと、過去の経験というフィルターを通して、この心の素がどのように意識に上るのかが変わってきます。

私たちがヨーガを行じることでやっているのは、この「自我」と「過去の経験」が、印象を陰性感情に変換する魔の装置ではなく、あたかも水槽のフィルターの如くに、自らに力を与える印象として受け止められるろ過装置のようなものとなるように訓練する、ということなのではないかと思うのです。

そして、今日のように、時折心通う仲間と出会って、それぞれのろ過装置の性能を確かめ合っているのかもしれません。おべんちゃらを言われても性能は高まりませんから、私の装置の働きについて苦言を呈して下さる方が必要です。
生きていれば色んなことがありますが、現象の根にあるものを見つめよう見つめようと努力をする中でぶち当たる困難は、有難いものだというべきでしょう。
痛いことには違いありませんが。

そうそう、今日出た話題のひとつに「死ぬとき如何にあるか」というものがありました。
今死ぬ、という瞬間に、口から神様の名前が出たという聖者の真似がしたいものです。
来たところに還るのに、何を恐れることがありましょうか。