蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№60 夢の中で整理しようとするもの

久々に自宅でゆっくりとした朝を迎えました。
明け方激しい雨が降っていて、雨の中出かける娘の足元を案じつつ、まどろんでいました。

昨日に引き続き、夢を覚えていようと思いつつ休み、様々に場面転換する夢を「見ている私」の意識を感じつつ夢を見ていました。
大きな3階建ての建物の最上階で、ある男性と二人で片づけをしていました。家人の一人の持ち物が多く、彼がその気になってくれないと片づけは進まないという話をしながら、作業をしています。大きな袋の中に、自分が好きな書籍が詰まっていました。複数、予備で買っていたものでした。そのなかから1冊ずつ取り出し、残りは処分することにしました。
場面は転換し、夜の街中である人に襲われます。その時の私の性別は男性でした。たまたま近くにいた知人が反撃をしてくれ、私を襲った人は殺されてしまいました。二人で、その武器を廃業したお店に放り投げ、見つめていました。

片づけ、殺人、廃墟、など暗いイメージが私の心を支配しているように思います。
ヨーガでは、「病気と不幸は最大の教師」という言葉があります。
人は、気持ちの良い中では学んだり成長したりできないと言い切っています。
自分というものの前提がいったん壊されなければ、新しいものは受け入れられないでしょう。

夢の中で、自分自身の何を殺し、片づけようとしているのか。
そもそも片付くのか。
ここのところ思うのは、「沈黙は金なり」ということ。
外界に対しては黙し、自らの内側の饒舌さを見つめ、どこからそれらの言葉が湧きだしてくるのかを理解する。
口に出すことは、どういう欲求の表現なのか。
最も自分自身のこころを理解しているのが、自分でありたいと願いますが、それが簡単に出来れば、ヨーガも4000年も歴史を重ねることはなかったでしょうね。