蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№66 待つこと

今日は3時半起床で、次女の遠征出発を見送って参りました。
6歳の頃から始めた取り組みは、今年で10年目を迎えます。

彼女はこのところ、頓に成長を遂げています。
勝てない、それでもお役は与えられる、プレッシャーに潰れる、泣き、苦しんで、体まで悪くなる。体調回復に2年ほど要したこともありましたが、そんなあれやこれやはすべて必要な事であったと思わされる今の成長ぶりは、見事としかいいようがありません。求めてやまなかった「きっと勝つ」と思わされる風格が、身に備わってきました。

前はきっと「ただ勝ちたい」だけだったんだろうなあ。
心根を王者に相応しいものにせんと欲しているからこそ、勝つんだろうなあ。
王者は人に優しいんだなあ。

大事なのは時間であったと思います。
もちろん良い師や兄弟弟子などの人や環境に恵まれたことは間違いありませんが、それでも人を育てるのは「時」であると言いたいと思います。

私もいくつかの取り組みごとを行っていますが、以前書いたように茶道の師から「絶対に辞めてはならない」というお言葉を頂いたことで、その後も重要な取り組みは辞めることなく継続しており、長いもので20年を超えました。
子供を持った時に、それぞれの子に「長く続けてきた何か」を持たせてやりたいと思いました。
誰かの優れた何かに触れて、憧れと共に活動を始める訳ですが、実際にやってみれば自分の理想と現実のギャップに直面する訳ですから、真摯な活動は必ず葛藤を生じさせます。
苦しい時に上手くやろうと思わないこと、同時に周囲が一緒にその葛藤に耐えてやることが大事なのかもしれません。

傍から見ていれば課題はよく分かります。
これができればうまくいくのに、なんでやらないの、と思います。
そういう時、先輩弟子として「アドバイス」なるものをしたくなりますが、それとは逆に師は何も仰いません。そうすると、陰口を言いたくなったりします。でも師は何も仰いません。師にまで物申したくなります。
自らが指導をさせて頂くようになって数年経ち、「先生の仕事は、待つことではないですか」とお尋ね申し上げたところ、師は微笑まれて「そのとおり」と仰いました。

このことを理解するのに、ある一定期間の実践と、「人にお教えする」という経験が必要でした(芸の道で、準師範を経て、他者への指導をしながら師範を目指すのは、道理にかなっているのですね)。
頭では分かっていても、人の葛藤を見ながら待つことはなかなか上手になりません。
自分自身の影が疼くからです。

思っているのにそうできない、根っこが必ずあるものです。
しばらく前に師から頂いた示唆も、自分の体験することも、すべてが私に「シャドウワーク」の重要性を教えています。象徴的な意味でもなんでもなく、泥にまみれた根の部分を見ることが結果として人を支え花開かせていくのでしょう。
私はラージャ・ヨーガに出会い、ヴェーダ瞑想がシャドウワークに繋がりましたが、この取り組みを必要としている人は世に多くおられるような気がしています。その心の解放を求めて、ポーズを取っている人も多くおられるのかもしれません。

自分の心の中の泥田と親しむこと、葛藤を恐れぬこと、そして決して焦らぬこと。
このことを心に起きつつ、実践を諦めない。
いつかすべてのわけが分かるなら、来世でもいいかな。