蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№378 リラクゼーションが気持ちいいのは

「生まれたものに死は必定であり、死んだ者にも生は必定である。それ故に、不可避の事柄について汝は嘆くべきではない。」 バガヴァッド・ギーターⅡ-27


姿勢を確立する手段には二つある。
空間の中で自分のからだの位置を認識すること(定位)と、
倒れずに動けるよう体を安定させること(安定化)。

定位とは、動き出す前に自分の位置を把握するプロセス。
地面からのサポートを感じることと、周りの空間を認識することで、私たちは自分の位置を把握している。
これはふつう無意識に行われる反応だが、こうした感覚のお蔭で動くのに十分安全だと感じることができる。

逆に、からだのまわりの空間に対する意識が制限されていると、のびのびとした動きができなくなる。
ものの見方が制限されているせいで、その場にどっしりと座り込むように、次に進むべき時が来ても、信念・仕事・関係などをいつまでも手放せないことがある

グラウンディングしすぎても、しなさ過ぎでも、知覚がうまく働いていなければ、私たちは不安感・不安定さを感じ、それに対処するために無意識に別のやり方で安定を求めようとする

安定化は、からだの内側で筋肉が働く活動である。
ある部分を固めてからだを安定させて、他の部分が動かせるようにする。
例えばビンを開ける時、片手でビンを押さえて、もう一方の手で蓋を回すように。

筋肉はまるで何枚も着物を重ねるようにして、骨格を包んでいる。
外側の筋肉は腕や脚、胴体などの目に見える動作を生み出す。
深層の筋肉は、関節や内臓を支える働きをしている。

からだの内側を無意識に閉じる癖は、人生を安定させようとする試みを繰り返す中で蓄積されていく。私たちが圧倒されたと感じるとき、地面や環境に対する知覚が多かれ少なかれ不足するのだ。

その時に感じる不安定さが、根源的な怖れ、つまり落下の恐怖を呼び起こし、さらにからだを固める必要性を高めてしまう。

わたしたちがうさぎならば、危険が去った後にぶるっとからだを震わせて跳んでいなくなってしまうことができるのに、人間は体の中に緊張を残してしまう。
それは、怖い目に遭った場所に何度も戻ってくるようなもの。

 

脅威に繰り返しさらされると、私たちの防御反応は慢性的な緊張としてからだの芯に残っていくのだ。
それは役に立つ反応だったから、つまりそのお蔭で生き延びることができたからこそ、習慣として残る

最初にその危険を体験したのはずっと昔のことであっても、ストレスにさらされるたびに、最初と同じ反応が起こり続ける。

安定化がいき過ぎると、年を取るに従い背が縮み、関節の可動域が少なくなって、人生を楽しむこと、表現することが制限されていく。
からだを固めすぎると、次第に重力に身を任せるしかできなくなる。

こうした過程を食い止めるために、まず緊張と弛緩の反復を感じることから練習することが必要になる。

人がリラクゼーションを心地よいと感じるのは、人生を懸命に生き抜いてきたことのなによりの証なのだ。

№377 姿勢には訳があるから

「結果と名誉と敬意とを期待する偽善的苦行は、不安定で移ろいやすく動性優位の苦行と呼ばれている。」 バガヴァッド・ギーターⅩⅦ-18

 

 

今のあなたの姿勢は、これまでどんなふうに振る舞うか決めてきたさまざまな経験に由来する。

目立たないように縮こまっていたかもしれないし、監獄に押し込められたような気持ちで勉強をしていたのかもしれない。自分の人生に怒りを感じているかもしれないし、道で転んでお尻を強打したことが関係しているかもしれない。

どんな理由があったにしろ、こうした緊張によってからだは歪み、成熟した大人になる頃には姿勢のせいで痛みを感じるようになっている。

姿勢は、周囲の世界と交流する中で作られる。
人生で起きる出来事に対し、どう自分を位置付けるか。
そうした出来事をからだでどう感じるか。
それに関わる人や物事にどう近付くか、または離れるか。
このようなことが姿勢を作り上げていく。
私たちそれぞれがしている“反応”が、立ち方、動き方をプログラミングしているのだ。

姿勢は個人の歴史の中だけで形作られるのではなく、文化的・宗教的基準、地理的特徴、天候や服装、魅力を左右するメディアイメージなどの影響を受ける。
さらに、根本的なのは重力との関係だ。

私たちのからだは本質的に不安定なもので、それは「動くために」設計されている。
可動する関節が何百もあり、組織はほぼ70%が水でできている。
これを深層筋が支えてくれている。

この不安定さのおかげで私たちのからだには”可塑性“が与えられ、呼吸や消化など体内で起こる変動や、その他の生命現象、動き回る時のさまざまな態勢に適応できる。
安定化はからだの内側で筋肉が動く活動で、ある部分を固めてからだを安定させて、他の部分を動かせるようにする。

姿勢と動作は分けて考えることはできないし、活動を安定とわけて考えることもできない。

ヨーガを人が求めるとき、からだを物のように見て、自分の都合の良いように働くよう作り変えたいという欲望を抱いていることがある。
でも今そこにある症状や痛みは、私という存在が統合していくためのサインをあたえてくれているものだから、まずその「世界の見方」から変えていく必要がある。

そこが痛むのは、別のところを自由に動かしたい!とあなたが思ったからなのだとしたら?

バガヴァッド・ギーターは、どちらかを選ばず、好き嫌いを言うなと教えている。
「もっとこんなだったらいいのに」という思いこそが病気である、というのがヨーガの病気観だ。

「からだが”こんな風に“なったら最高だ」と一方的に思うのではなく、「いったいあなた(肉体)は、私にどうして欲しいと思っているのか」と体に問うてみて欲しい。
これまで正しいと思ってきた基準や信念が変わることで、身体も変わっていく。
からだの言語は感覚なので、意思疎通のために、あなたは感覚を感じ取る能力を高める必要があるかもしれないが、そうすることで得られる恩恵はとても大きいだろう。

 

№376 自分の声を聴く練習

「至高の主は万物中に等しく存在し、万物が滅びても滅びることはないと見る者は真に見る者なのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅩⅢ-27

オンライン・アグニホトラ、無事終了。
ノートパソコンの前で、掌を火(の写っている画像)にかざす姿は傍から見ると滑稽かもしれないが、私は確かに火の熱を感じた。

3つのお祈りは記憶とは全く違っていて、正しくは、この先1年、
1.家族の中でどのようにヨーガを用いていくか

2.友人、知人、ヨーガの仲間にどのようにヨーガを用いていくか
3.ヨーガの智慧で、自分をどのように進化させていくか
というものだった。

PURNAHUTI(修了式)のマントラのなかに 
“OM AYURDA AGNEASHI AYURME DEHI.”
「火の神様、御身は生命の授与者。我に意義ある生を与えたまえ。」
という一句があり、この言葉にはいつも深く感じ入ってしまう。

かつて頂いた瑜伽名も、このようなマントラにもいつも考えさせられ、けっして解けることのない問いを胸に生きているかのような気になる。
これが、ヨーガをするということなんだろう。

…………………
さて、儀式の話はこれくらいにして、
今の自分の“姿勢”に自信を持っていない人は多い。

ヨーガ実践を通じて自分自身を見つめていくということは、子供の頃「他の誰かが推奨していたり、誰も教えてくれなかった体の使い方」について拓かれていくことなのだと思う。

健康・食事(栄養)など、生きるにあたってとても大事なことについてお勧めされている事々なんて、どれも誰かの仮説にすぎない。
食事やダイエットにまつわる考え方や手法の実に混乱した状況を見るだけでも、それは明らかだろう。

仮説を自分の身に用いる時、判断基準を持っていなければその混乱はますますひどくなるばかり。
また、判断基準に用いるものの精度が未開発であったら、これまた混乱を来す。

ヨーガは、「自分自身の取扱説明書」を整備し、それを毎日改訂していく作業だ。
改訂作業の年数が延びると、基準の精度も上がっていく。
おまけに、“肉体と心”というだいじな道具の調子も上がるというおまけもついている。

幼いころ、外に飛び出して陽の光を浴びたいのに、それをやった別の子がこっぴどく叱られているのを見たことで、私たちは分別を身につけ、心身の衝動を抑圧することを学んだ。
それは幼い心にとって、まぎれもない恐怖であったろうと思う。

だから私たちには、大人になって改めて心身の衝動を受け止め直すことが必要だ。

本当は、体は答えを知っていて、どんな姿勢を取ると楽になるかを様々な感覚を通じて教えてくれているのだが、残念ながらもうその声を聞き取ることができなくなってしまっている。

姿勢というのは、じっと黙って座っていることではない。
動きのなかでどんなふうに体を使う・運ぶかということ。

瞑想をやってみたことがある人は、じっとしているのがどれくらい難しいことか知っているだろう。
私たちはこんなに難しいことを、小さな子供の頃から推奨されて育ってきた。
なにかの機能がうまく働かなくなっていても、全然不思議じゃないではないか。

同時に、瞑想が苦痛なく行える人は、動きが無いように見える時にも身体は活発に活動していることに気付いているはずだ。それは実に微細な動きなのだが、この小さな動きが阻害されることで大きな症状につながっていくのだ。

自分のからだの使い方は、生まれてから今までの間に、他者にどう支えられ、どんな評価を受けてきたかによって作り上げられている。

ひとつ実験をしてみて欲しい。
首のうしろ、後頭部と首のつけねあたりの感覚と、目の動きが連動しているのを感じてみよう(後部下筋群)。
顔と首はつながっている。

眉間にしわを寄せてパソコンの画面を見つめているときと、ふと視線をずらして周囲をぼーっと見てみたときと、首の感覚はどのようにちがうだろうか?

「ちゃんと前をみていないさい!」という無意識に刷り込まれた指示を放り出して、明るい外の景色を見たとき、いつも痛むあなたの首は何を語ってくれるだろうか。

 

 

№375 儀式をまえに

明日は、年に一度のグルプージャ祭に参加する。

日本の真言宗(別名・瑜伽宗)の護摩炊きの元になったのだろう“ホーマ”という火祭りをおこなって、この1年の御礼と、またこれからの1年の御加護を師と共に祈念する。

ヨーガは、人から人へと伝えられてきた。
あなたのヨーガにも、私のヨーガにも、それを伝えてくれた人がいる。

経糸が途切れなく続き、誰も伝えることを諦めなかったからこそ、今ここで私がヨーガの智慧に与れることを、歴代の師匠(Guru)に感謝(pūjā)する儀式である。

インド・リシケシのアシュラムでは毎年夏至の日に儀式が行われ、その後日本でも全国数か所で開催されるが、今年はもちろん(残念ながら)オンラインである。

2008年頃、ヒマラヤから導師が来日された折に、私も聖名を拝受した。
なので、私もこの経糸のなかのひとりとして正式に加えて頂くことができ許され、毎年夏至の前にはお手紙を頂戴する。

儀式ではどんなことをするかと言うと、みなで真言を唱える中、まず「大先生=師匠の先生」のお写真に対し礼拝、花などを捧げる。この真言読誦は儀式が終わるまでずっと続けられるのだが、読誦と言っても歌を歌っているようなもので、とても美しい。

礼拝の後、師匠から左手に「赤い糸」を巻いてもらう。
運命の赤い糸である(本当に、その由来になったものらしい)。

そして眉間の、アジュナ・チャクラ(第3の目)に赤いしるしをつけて頂く。
インド人の額にあるアレ。ただし擦ったら取れる。
昔は、恥ずかしいので儀式後に拭っていたが、最近はこのまま買い物にも行ってしまう。腹が据わったのか、人の目など気にならなくなったのか。

赤い糸を巻いて、額に赤いしるしを付けたみんなで護摩を焚く。
真言を唱えながら抹香をまき、聖水をまき、ギー(サンボを食べようとしたトラがぐるぐる回っているうちに、これになった。バターを更に精製したもの)をまく。

そして護摩木をくべる。ひとり3本の護摩木に祈りを捧げながら、1本ずつくべる。

今年1年、ヨーガの智慧をどのように用いたのか。
そして次の1年、どのようにヨーガの智慧を用いていくのか。
もう一つの祈りはなんだったのか思い出せないのだが、自分の好きなことを祈るのではなく、ヨーガについて祈る。

最後はもう一度、師の前に進み出て木の実や甘菓子を頂戴する。
火の消えた炉を外に運び出し(移動式である。真言宗と比べると超簡易版。)、
軽食(果物とパン)、チャイを頂戴しながら、一人ひとりが順に一言ずつ思いを言葉にし、それぞれが師から一言頂き、散会となる。

明日の儀式はオンラインのため、糸を巻いてもらったり木の実をもらったりすることはできないが、それでもこの儀式を前に身を清めるため、今日の午後から断食をしている。

可笑しな話に聞こえるかもしれないが、私はかつて、ヨーガの神様(誰なんだろう?ブラフマン?)に「自らをヨーガに捧げると誓え」と言われた気がした。妄想かもしれない。しかしそれ以来、常にそのことを意識し、畏れつつ今に至る。

この業界に対して思うことは多々あるが、それはヨーガのごくわずかな側面のこと。
ひとりひとりが別々にわかれて存在しているように見えながら、実のところみなすべてがひとつであるという智慧に啓かせてくれる、大きな意味合いでのヨーガというものに、私はひれ伏している。

そして私を救ってくれたように、またどこかの誰かがヨーガによって救われるその連なりを、決して断たずに今生を生きたい。

 

 

№374 姿勢と呼吸

アルジュナよ。それらの行為は我を束縛しない。というのも我はそれらの行為の中にあっても、何事にも執着せずに中立者のように座しているからである。」
 バガヴァッド・ギーターⅨ-9

 

アサナ(体操)で「ポーズをとる」ということは、ある姿勢でしばらく過ごすということ
その時自分はいったいどうしているのかを、意識下におき客観的に検証するのが体操をやる目的のひとつ。

ヨーガとは打撃である。
教師は打撃を与える存在である。

いったん自分という存在に打撃が与えなければ既存の器は揺らぎもしないし、そこに変化も生じないからである。ただ筋肉や関節に対して何かをするのとは、訳が違うのだから。

アサナは心身(食物鞘)と呼吸(生気鞘)を主に使った打撃であり、単に気持ちよくなるための動きではない(もちろんきちんと段階を踏んでから打撃を経験する)。

なぜアサナが打撃かというと、「思っていたようにはならない」から。
自己イメージがひっくり返るのだ。

自分自身(の体)は思ったように動かない。
動いているうちに呼吸を忘れ、歯を食いしばっている。
思考が暴走し、ムキになって体を動かしてしまう。

と、あれこれ想定していなかったことが起きる。

アサナの最中に起きることは、普段ストレス下で無意識のうちに起きていることである。
それを安全な場で追体験することで、意識的な動きに戻し変化させることができるようにしたい。


「普段の何気ない姿勢の健康」を取り戻すには、うまく呼吸する方法を改めて学んでいく必要がある。
これは誰が教えてくれるかというと、実は先生ではなく、自分の感覚が教えてくれる

自分自身の呼吸と調和し、どんな動きのなかでも平穏に在ることができる先生と空間や時間をともにすることで、その「感覚」を学びとることになるのであって、体操を習う訳ではない。
ヨーガを通じて私たちは、自らについて学んでいるのだから

自らの呼吸のリズムを、自分自身で感じ取るために、まずはやさしいゆっくりとした動きで身体を意識できるようにしていく。
その次に、少しだけ自分にとって難しいポーズに取り組んでみると、いったいどんなときに自分は息を止めてしまうのかが見えてくるだろう。

正しい呼吸のやり方は、その時行っていることによっても異なる。
だからこそ、アサナの練習には価値があるのだ。

横になっているときには腹式呼吸
プレッシャーがかかる状況では、胸でしか呼吸ができないかもしれない。

走る時には胸式と腹式を組み合わせる必要がある。


現代の、特に女性の着衣には、身体を締め付けるものが多い。
下着等で身体を圧迫していると、呼吸の自然な動きに対する意識は低下するだろう。
その負の影響は、実はとても大きいと思うのだ。

呼吸の働きによって身体は大きく動くものだし、自由に動くことのできる余地を服装の面からもサポートしてあげてほしい。

レッスンはゆったりした服装で行うことが大事なので、リラックスした環境でパジャマのような服装でも気軽にできるオンライン・レッスンの必要性は、これからますます増えていくのかもしれない。

 

 

№373 呼吸が先生

「喜ばず憎まず、嘆かず求めず、善悪の思いを捨てて我を信愛するものは我にとっても愛しいのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅩⅡ-17

今日の山陰は雨。
雨の朝の空気は実に美味しくて、生命が滋養されていると感じる。


さて、過呼吸が慣れっこになってしまうと、様々な症状が慢性化するということについて昨日書いた。

過呼吸の身体的な原因としては以下のようなことがある。
・慢性痛

・喘息

・心臓病

・肺炎

・糖尿病

・発熱

・長時間の会話

・高地にいること

 

また女性の場合、生理中や妊娠中に過換気症状を体験することがある。
妊娠後期は特に胸でしか呼吸ができなくなっている人が多いため、マタニティ・ヨーガなどの取り組みがどれほど重要か理解して頂けると思う。
ポーズにこだわるものでは、救いにならないことも。

 

身体的なもの以外の原因としては、

・不安感

・鬱

・完全主義

・孤独感

・失業など突然起きた生活の変化

・離婚

・引っ越し など

今の時期に付け加えておきたいのは、マスクを長時間着用すること。

息苦しさが慢性化して、苦しさを感じなくなっていたら要注意だ。

 

息を無意識に止める癖のある人も多い。
ため息やあくびが多ければ、息を止めることと過呼吸が交互に起きている可能性が高い。

ヨーガのアサナと、他のトレーニングを同じように考えて欲しくない理由はここにある。
呼吸が何より優先なのであって、肉体を思いのままに使うことはその後の問題であるということが理解されていないように感じるからだ。

特にマシンを利用するような単純な反復の動きは、機械的になることで心身に対する意識的な気付きを低下させている可能性が高い。
これではますます呼吸は不自然になり、思いもよらない症状を生み出すことにつながっているかもしれない。

息を止めてしまうのは、それがある意味役に立つからである。
呼吸を止めると一瞬世界が止まる。
大事な試験のとき、怒りを抑えようとしているとき、集中するとき。
こんなとき、人は安定感を求める。

でも、息を止めても、よく考えたり理解したり、心を落ち着かせたりすることの助けには全くならない。むしろ脳にいく血液が減り、正反対の結果になる。
「緊急時の呼吸」を小さな緊急事態に使い過ぎると、その癖がカラダの化学反応を変化させてしまう。

身体は、想像しただけのことも現実であるかのように反応する。
それが身体の自然な在りようであるからこそ、瞑想のような取り組みが健康に寄与するのだ。
考えていないときに初めて、身体は安らげる。

ヨーガ・アサナでは、スーリヤ・ナマスカーラ(太陽礼拝)のような連続する動きがあるが、呼吸を意識して動くことで、肉体と意識、そして自分の心(印象)が分かちがたく結びついていることが理解される。

自らの心身を通じて、自分を活かす呼吸を学ぶ。
師は自分自身の内に存在している。

 

 

№372 ”自分”感度を上げる

「万所にある風(ヴァーユ)が空間(アーカーシャ)の中に永遠にあり続けるように、万物もまた我のうちにあると知れ。」 バガヴァッド・ギーターⅨ-6


この世界のありとあらゆるところに遍在している生命のエネルギーのことを、ヨーガを行じる者は”絶対者ブラフマン”と呼ぶ。
「絶対者」という言葉は人を感じさせるけれども、実は「場=フィールド」という意味なのだということが、井筒俊彦先生の本を読んでわかった。長く心にかかっていたことだったので、明快になって嬉しく思っている。


さて今日は「過換気」について

過呼吸のことを「過換気」ともいう
空気と過換気の関係は、食べ物と過食の関係のようなもの。
どんなによいものでも、身体が使える以上に多くとり過ぎると何かしら苦しむ

ストレス下で呼吸が速くなっているなら急性過換気だとすぐにわかるが、慢性的な過呼吸は気付かれていないことが多く、一般診療にかかる患者のおよそ10%は“過呼吸症候群”と呼ばれる問題を抱えているという。

過呼吸は様々な症状を伴う
頻繁なあくびやため息、はっきりした理由のない息切れ、めまいやふらつき、疼くような痛み、四肢のしびれや冷え、筋肉や関節の痛み、動悸、胸痛、胃のムカつき、過敏性大腸症候群、倦怠感、不眠症、悪夢、性機能障害、不安感、鬱 ……

ではなぜ、こんなにもたくさんの問題が過呼吸によって起こるのか?
過呼吸で血液のアルカリ度が高くなると、非常時の対応を担当する神経システムが警戒態勢に入るからだ。

心拍が上がり、アドレナリンや他のストレス化学物質が血流に放出されて、血圧が高くなり、筋肉は緊張し、消化活動は抑制され、体内のエネルギーが高活性状態になる。
また、ドキドキする心臓はパニック感を生み出すため、心理的にも不安感がかきたてられさらに上記のような体の反応に拍車がかかるだろう。そして悪循環に陥る。

二酸化炭素量が低くなると、身体は窒息状態にあるかのように反応する。
酸素をたくさん持っているにもかかわらず、血液細胞は組織に酸素を放出しなくなり、脳への酸素供給量は最大40%まで減少する可能性がある。

皮肉なことに、過呼吸で身体は酸素不足に陥るのだ。
「空気飢餓感」という苦しい感覚はさらなる過呼吸を呼び、問題を長期化させることになる。

過呼吸は、心身のストレスに対する体の正常な反応である。
それが習慣化されてしまう理由は、
・常にストレスに晒されている
・ストレスの処理方法を知らない
・心身の感覚が鈍ってしまっていて、ストレスに無自覚であるため対処できていない
・現在受けているストレスが、過去に経験した嫌なことに似通っていること
などにあると思う。

過呼吸のきっかけとなった事象が目の前からなくなっていたとしても記憶は残っているため、それを常に反芻してしまうことも多い。
習慣はしっかり体に根付いて本能的な動きと化してしまっており、からだの組織もアルカリ性の化学バランスに慣れっこになってしまっていることもある。

そうすると、過呼吸の状態がカラダにとっての標準の状態になるため、様々な症状が慢性化してしまうのだ。

緊急事態が平常だなんて、ものすごく恐ろしいことである。
「ヤバい!何とかしなきゃ」と思える感性を、まず養ってほしい。

感じることを通じて「今の状態では嫌!」と自分が思えるからこそ、変化を生じさせることができる。既に無意識レベルで定着してしまっている心身の仕組みを外から変化させることはほぼ無理だが、あなたがそうしたいと決めれば必ず変化は生み出せる

外から他者がなんといっても、人は変わらないものだ。
あなたが“自分自身を感じるセンサー”の感度を高めていくことが、何よりも大事。

次回は、過呼吸の身体的な原因などについてお話を。