蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№376 自分の声を聴く練習

「至高の主は万物中に等しく存在し、万物が滅びても滅びることはないと見る者は真に見る者なのだ。」 バガヴァッド・ギーターⅩⅢ-27

オンライン・アグニホトラ、無事終了。
ノートパソコンの前で、掌を火(の写っている画像)にかざす姿は傍から見ると滑稽かもしれないが、私は確かに火の熱を感じた。

3つのお祈りは記憶とは全く違っていて、正しくは、この先1年、
1.家族の中でどのようにヨーガを用いていくか

2.友人、知人、ヨーガの仲間にどのようにヨーガを用いていくか
3.ヨーガの智慧で、自分をどのように進化させていくか
というものだった。

PURNAHUTI(修了式)のマントラのなかに 
“OM AYURDA AGNEASHI AYURME DEHI.”
「火の神様、御身は生命の授与者。我に意義ある生を与えたまえ。」
という一句があり、この言葉にはいつも深く感じ入ってしまう。

かつて頂いた瑜伽名も、このようなマントラにもいつも考えさせられ、けっして解けることのない問いを胸に生きているかのような気になる。
これが、ヨーガをするということなんだろう。

…………………
さて、儀式の話はこれくらいにして、
今の自分の“姿勢”に自信を持っていない人は多い。

ヨーガ実践を通じて自分自身を見つめていくということは、子供の頃「他の誰かが推奨していたり、誰も教えてくれなかった体の使い方」について拓かれていくことなのだと思う。

健康・食事(栄養)など、生きるにあたってとても大事なことについてお勧めされている事々なんて、どれも誰かの仮説にすぎない。
食事やダイエットにまつわる考え方や手法の実に混乱した状況を見るだけでも、それは明らかだろう。

仮説を自分の身に用いる時、判断基準を持っていなければその混乱はますますひどくなるばかり。
また、判断基準に用いるものの精度が未開発であったら、これまた混乱を来す。

ヨーガは、「自分自身の取扱説明書」を整備し、それを毎日改訂していく作業だ。
改訂作業の年数が延びると、基準の精度も上がっていく。
おまけに、“肉体と心”というだいじな道具の調子も上がるというおまけもついている。

幼いころ、外に飛び出して陽の光を浴びたいのに、それをやった別の子がこっぴどく叱られているのを見たことで、私たちは分別を身につけ、心身の衝動を抑圧することを学んだ。
それは幼い心にとって、まぎれもない恐怖であったろうと思う。

だから私たちには、大人になって改めて心身の衝動を受け止め直すことが必要だ。

本当は、体は答えを知っていて、どんな姿勢を取ると楽になるかを様々な感覚を通じて教えてくれているのだが、残念ながらもうその声を聞き取ることができなくなってしまっている。

姿勢というのは、じっと黙って座っていることではない。
動きのなかでどんなふうに体を使う・運ぶかということ。

瞑想をやってみたことがある人は、じっとしているのがどれくらい難しいことか知っているだろう。
私たちはこんなに難しいことを、小さな子供の頃から推奨されて育ってきた。
なにかの機能がうまく働かなくなっていても、全然不思議じゃないではないか。

同時に、瞑想が苦痛なく行える人は、動きが無いように見える時にも身体は活発に活動していることに気付いているはずだ。それは実に微細な動きなのだが、この小さな動きが阻害されることで大きな症状につながっていくのだ。

自分のからだの使い方は、生まれてから今までの間に、他者にどう支えられ、どんな評価を受けてきたかによって作り上げられている。

ひとつ実験をしてみて欲しい。
首のうしろ、後頭部と首のつけねあたりの感覚と、目の動きが連動しているのを感じてみよう(後部下筋群)。
顔と首はつながっている。

眉間にしわを寄せてパソコンの画面を見つめているときと、ふと視線をずらして周囲をぼーっと見てみたときと、首の感覚はどのようにちがうだろうか?

「ちゃんと前をみていないさい!」という無意識に刷り込まれた指示を放り出して、明るい外の景色を見たとき、いつも痛むあなたの首は何を語ってくれるだろうか。