蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№317 絶望

人生に向かい合う姿勢が変わってしまった時、私のなかに湧き上がってきたものを否定せず、認めてくださった方はほんの数人しかいなかった。

かつての自分は、「理想の私」になるために既存の枠組みの中で役に立つ手法を採用し、そこで必死に努力してステージアップして年収アップ、などという、誰にとっても分かりやすく人から賛同してもらいやすい目標をなんとか掲げていることができた。
しかし、今はもうそういうのはさっぱりダメである。そもそも理想ってなんだ。他の誰かの夢を、自分の無意識に刷り込んでいるだけかもしれない。

インテグラル理論に触れ始めた頃、わたしの視野は笑いが出るほど狭かった。柵で囲まれた職場で働く国家公務員だったから尚更だ。ドメスティックな職場で、ドメスティックなことにしか興味がない恐ろしい視野狭窄

ウィルバーの本を読むようになって自分の視野の狭さ、視点の低さに唖然としているときに触れたのが、映画「ホテル・ルワンダ」だった。こんなことが起こっていたのを知らずに生きてきたことが、震えるほど恥ずかしいと思った。
あれから何年も経って自分の眼がどれほど開かれたのかわからないが、自らが置かれている場で思っても見ないことになったとき、どうふるまえるのかについて考え続けてきたとは思う。

昨日、ある映画を見た。
原題 “Amen.”。2002年フランス・ドイツ・ルーマニアアメリカ合衆国の映画作品で、邦題は『ホロコースト -アドルフ・ヒトラーの洗礼-』(本にしても映画にしても、もっとセンスのある邦題をつけて欲しい)。ゲルシュタイン報告を遺した、武装親衛隊の中尉クルト・ゲルシュタインが主人公の映画だ。

そもそもこの映画を見るまで、私はゲルシュタイン報告のことも知らなかった。
ゲルシュタインは寄生虫駆除(殺虫剤)の専門家だった。その技能を重宝され、絶滅行為に深くかかわることになる。内部で実態を見た証人としてその場に居続けることを決めた彼は、中立国や連合国になんとかホロコーストについて知らせて阻止しようとするのだが、各国大使もキリスト教の関係者も、皆まったく協力してくれない。

映画のなかではバチカンにまで出向いて訴えるのだが徒労に終わり、共に行動していたカトリックの青年が絶望してユダヤ人たちと一緒に輸送列車に乗り込んでしまう。代々教皇に使える名門一族の彼を、ナチスも殺しはしないのだが、ゾンダーコマンダーの部隊に入れ死体処理に当たらせる。絶滅行為の最終過程までを知った彼は、収容所から出ることを拒否するのだった。

フランスで捕虜になったゲルシュタインは、後世に残る報告を書きあげるが、連合国側から「現状を知りつつ何ら対策を取らず」という評価が与えられたのを知り、獄中で自殺した。
1965年には有罪判決は取り消され、彼の名誉は回復させられたという点だけが救いだ。

この映画を見た晩、日本政府は国民の一世帯ごとに二枚のマスクを支給してくれる、というニュースが流れた。

国家、政府は何のためにあるのか。お金という道具は人を食い物にするためにあるのか。
こういった怒りを感じるのは私だけでないだろうし、大戦中に政治犯として検挙されたり、思ったことを口走って周辺住民から村八分にされたりした人も、同じような憤りを持っていたということなんだと思う。そしてこの国は、あの頃から何も変わっていないのか、むしろ退行しているのか。

虚しい中でも生きていかねばならないんだよなとため息交じりに思った時、規夫先生のツイートに、「今の自分自身の意識を呪縛してい『感覚」『常識』や『物語』や『枠組』がいとも簡単に溶解することを常に認識しているのが後慣習段階だ』とあった。

以前の私は、人のためと言いながら、深いレベルでは自分のために教えていたと思うし、自分の成長のために文章を綴っていたと思う。しかし今ここに至って、「発達はやむにやまれず起こる」ということが少し理解できるようになった。目立つ他者が掲げる何かに対して人と一緒に「すごーい!」と言い一緒に神輿を担げた頃も、心の底から満足していた訳ではないが少なくとも今より迷いは少なかったように思う。

この国の在り様に絶望しているが、それでもなお、なぜ今この場で生を与えられているのかについて考えていたいし、人をこの世に生じさせた何かは、いったい何をしろと言っているのか(それともなにも考えていないのか)観想してみたい。

インド人が輪廻の輪から解放されることを願う心理が、しみじみ理解できる春である。