蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№314 ギックリ”道”  

 

武道館で腰が”ギックリ”してから、1週間が経った。
発症の二日後にはレッスンを再開したが、レッスン後は全身の違和感が全く無くなるのは本当に感動的だ。その後、座っていたり、一晩寝たりすると固さが戻ってくるので、完全に回復するにはもう少し時間が必要なのだろう。

結論から言うと、良かれと思ってやっていた普段の何気ない習慣がそもそもの原因だった。発症までに数か月かかっている。今回のことがなければこの習慣の悪影響に思い至らなかったと思うので、何かの重みで撓んだ枝が、これ以上曲がり切れずに弾かれて真逆に振れ、振幅を少しずつ小さくしながら本来あるべきところに戻りつつあるような感覚を覚える。

やるべきではなかった習慣について語る前に、突然だが茶室の中の状況をご説明したい。
茶道のお稽古=正座 というイメージがあると思うが、全くその通り。お稽古は最低2時間。足が痺れる人も多いので、お尻の下に入れる小ぶりの座布団がお稽古場に備えられている。
この写真のもので、サイズは22×22×13cmとのこと。

 

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正座用座布団


 さて、普段私は座卓でパソコンに向かっている。正座だったり胡坐だったりだが、時間が長くなるとどうしても膝の血行が悪くなり集中力が削がれるので、そういえば!とあの「お尻座布団」を思いついた。ところが私は正座が苦痛でなく、我が家にお尻用座布団などないため、先生から譲り受けた上等の座布団を巻いて、お尻の下に突っ込んでいた。いわゆる「おばあちゃん座り」ってやつですね。踵がお尻から外れた状態で長時間座り続けてまず何が起こったかというと、骨盤底筋群の感覚が鈍った。

2月、理学療法士のO先生とコラボレッスンをしながら「腹圧」の感覚がピンとこない…と感じていたのだが、腰がギックリした翌日、腰は痛いのに骨盤底筋が以前のように力強く動かせる感覚が戻ってきたのだった。そこで初めて、これまでの姿勢のことに思い至った。

どの姿勢も悪くはない。この「おばあちゃん座り」も一つの体操としてなら、行っても良いし、何の問題も生じない。パタンジャリ大師はヨーガのアーサナ(座法)は「快適で安定していなくてはならない」と言っているが、座布団を突っ込まないと長時間座れないなんておかしいだろう、ということである。
 

突然来るので「魔女の一撃」と呼ばれているというギックリ腰だが、前兆は確かにあった。これまで生徒さんから「癖になる」と聞かされていたが、1回1回の症状の起因となるものも、発症時に腰という非常に広い範囲の中でどの部分がどうなっているのかも、まったく異なると思われる。

こういった病状で検査を行いレントゲン撮影をすれば骨が映るため(逆に言うと骨しか映らないため)、骨や関節が悪者にされてきた嫌いがあるように思えてならない。
当日は動作時にかなりの痛みがあるので、検査をした方がいいかなとO先生に相談をしてみたが、検査しても原因はわからないと思うよと言われて、通院するのは止めた。

そもそもじっとしていれば痛くないし、夜寝ていても痛みで目が覚めたりすることがないのだから骨に異常はないのだろうと思った。以前、胸骨にひびが入ったときは夜も眠れずに痛んだからだ。

 

骨を動かしている筋肉やそれにまつわるもの状態は、目で見ることが難しいため人はあまり気にしないようだ。腰痛には骨盤内の殿筋や底筋群が密接に関わっていると思うが、こういう部分を意識して感じることは、知識と訓練なしではなかなか難しい。

今回のことを通じて、どこから生まれ出でて来て、どこに辿り着くかもわからないに関わらず、小さなことを重大な悩みのように取り扱う“人”というものの習性を目の当たりにしたような気がした。例えば、「お金がない」と嘆き自らの不幸を呪ってみたりはするのに、今日も息を吐き出し新しい息を吸い込めるからこそ生きて悩むことのできる事実とその有難味を、日々改めて評価しないように。

体を通じて人が自らの内面と向き合い、自らの取り扱い法を体得していく過程のサポートをしている訳だが、今回の体験は非常に多くの気付きを与えられた。バガヴァット・ギーターの教え通り二極のどちらかだけを喜んでいてはいけない。人は経験する症状や病気から多くの恩恵を受けることができる。それは大事なシャドウワークにもなるだろう。

発症する日の朝に「インテグラル・スパイラル・リバーの、レッドやアンバーの水の中で皆と一緒に泳げ」と言われる夢を見た。自分としては、この夢と今回の症状を切り離して考えることはできない。夢の意味するところも、ずっと考えていきたい。

慢性的にどこかが痛い人と、くよくよ思い悩んで眠れない人のお力になりたいものだ。お一人でも多くの。
ギックリしたり痛みを感じることを通じて、これまで知らずにいた自分自身に出会えるのなら、これも一つの道といえるような気がしてならない。
ありがとう、”ギックリ”。