蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№311 世界と向き合うパターン②

トラウマ的な体験が人に与える影響や、そこから回復する方法としてのヨーガ実践について考察したい。

いつも言うとおり、ここではアメリカ的なフィットネスの“ヨガ”は含まない。
トラウマ・ケアの観点から言うと逆効果、もしくは更なるトラウマに繋がる可能性を否定できないので、そういう目的でヨーガを活用したいと思われる場合、フィットネス・クラブのスタジオ・プログラムなどは決して利用しないで欲しい。ちなみに私も一度スタジオ・プログラムのヨガ・クラス受講の経験があるが、人と動作を合わせる、呼吸のタイミングを合わせることを強要され非常に苦痛であった。当然ながら、ひとりだけ別のゆったりした動作をして自らの呼吸のペースを断固守っていた。(他の参加者がどう思っていたかなど知ったことか!)

さて、伝統的なヨーガの身体的な動きから得られる利点については、以下のようなものがある。
まず呼吸を伴う動きであること。ゆっくりとした動きであること。目を閉じて自らの世界に入り、正しいか否か問われないこと。考えから離れ、何か大きなものとつながることを目指すこと。自らを客観視することが求められること。これらの条件がだいたい満たされれば、終えた後に深いリラックスの感覚が得られること、などであろう。

なぜこういった結果が得られるかというと、呼吸と動作をゆっくりと同調させていくことで、神経の働き(主に迷走神経)が調えられるからであろうと思う。世界と対峙する上で本能的に取っていた戦略を、改めて「今の」自分にとって益になるように改変していくためのきっかけが、そこでは与えられる。

 

これまで、「ヨーガ」を何のために教えているのかが明確でなかった。
楽になることは確かなのだが、いったいなにから楽になることを求めているのか。
エンパスと思われる人は5人にひとりいるそうだが、その条件を満たす人を思い浮かべると教室に来られている方の多くが該当する。自分が何かのレッテルを貼られるのはどんなものでも嫌なものだが、自らをより深く知るための道具としてなら、いったんそのレッテルを受け容れてもよい。

目の前にいる人から無言の圧力を受け、その空気に屈した経験のある人や、どうしても一人でいる時間が必要だと感じている人は、同じ仲間を見つけて自分と同じ感覚を共有している人がいることを知って欲しい。
この感覚は能力でもあるが、あらゆる能力と同じく諸刃の剣である。ぜひ、こういった人たちを支援する活動を立ち上げたいと思っている。

また、感受性の高い人にとって、ヨーガや武道のような心身調整プログラムは必須である。これは肉体のための運動ではなく、自らの存在を調整するためのエネルギー療法であることを理解して欲しい。肉体の変化はおまけとしてついてくるだろうが、それは目的ではない。