蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№208 その後どうなったのか 

 昨日、「怪奇小説傑作集3」を再読していたら、非常に印象深い作品に出会った。
以前読んだ時にはさほどの印象を覚えなかったようで、あまり記憶に残っていなかった。
イーディス・ウォートンの「あとになって」という作品で、自分の思いが及んでいなかった、配偶者の影の部分に出会わざるを得なかった女性の話。

この作家はピュリッツァー賞も受賞した人なのに、作品はすべて絶版になっている。
映画「エイジ・オブ・イノセンス」の原作を書いた人と言った方が分かりやすいだろうか。

この「あとになって」の読後感が最高だったので、他の作品も読みたくなったのだが、幸いなことに図書館ですぐに手に取ることができた。田舎の図書館では恩寵ともいうべき幸せ。「幽霊」という短編集だ。

「怖さ」という感覚を、どういった点に感じるかは人それぞれだと思うが、私の場合は「閉じ込められる」という状態に恐怖を覚える。
自分が閉じ込められる怖さ、というよりも、誰かが閉じ込められているのに誰も救い出せない、救い出さない、という心理的な恐怖。

以前、山の町で頻繁にレッスンをしていた頃、図書館に入りびたりだったことがあって、夏を前にしたある日、図書館員の方から「怖い本を紹介して」と声を掛けられた。
そこで私が紹介したのは、バルザックの「グランド・ブルテーシュ奇譚」で、今もこれ以上に怖い本はないだろうと思っているのだが、案に相違して「怖さとして高度過ぎる」と言われ、却下されてしまった。

共感はされなかったものの、これは「閉じ込め系恐怖」の最高傑作であると思っていたのだが、この度「祈りの公爵夫人」というウォートンの作品に出会った。
ぼかしっぷりが際立っており、読み様によっては煙に巻かれて終わりそうでもあるが、私のように「閉じ込め恐怖」に敏感なものにとっては思わず放心してしまうような名品なのであった。

「え?」と思い、前のページを改めて繰る。でもやっぱり…。あゝ…。
そういう感じです。

他には、ロアルド・ダールの「天国への道」も怖い。
初めて読んだのが原著だったので、自分の英語力が不足しているために、結末を間違って理解してしまったんではないかと思うくらいゾッとした。後に、翻訳を読んでみたが間違いなかった。

でもどの作品も、はっきりと語っていない訳だから、閉じ込められることよりも「ぼんやりとした謎」こそが怖いのかもしれない。
自分のなかにも、ぼんやりとした謎があると思う。
そこに方便をつけて生きている訳だが、本当のところはどうなのか…

日本昔ばなし「吉作落とし」は、閉じ込められてはいないが、置き去り系の恐怖。開放感があっても、閉じ込められてるのと同じじゃないか…という点で、この作品は救いがない。

ということで、なぜこういった「恐怖」に心惹かれるのだろうか。
ちなみに、こんなに心揺さぶられるのは、文章と音だけです。
映像はそんなに怖く感じないのも、不思議なもの。


 「そこの小部屋にだれかいるのかね?」
 「だれもいなかった場合には、わたしたちはこれまでですわね」
   ~グランド・ブルテーシュ奇譚より

 

グランド・ブルテーシュ奇譚 (光文社古典新訳文庫)

グランド・ブルテーシュ奇譚 (光文社古典新訳文庫)

 

 

幽霊

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№207 食欲など、感覚の制御について

先日の聖典学習で、「食欲と性欲の制御をいかに上手に実行しているか」という瞑想お題が出た。

まだヨーガを始めたばかりの頃、単に体操としてのヨーガをしていた頃のこと、教室で体操をしながら、帰りにパン屋によって買うパンのことばかり考えていた。

特に、ダヌル・アーサナ(弓のポーズ)という後屈のポーズが苦しくて大嫌いだったので、その時にはパンの思考が盛んに溢れた。
というか、「パンの思考に逃げた」。
じっとその苦痛の中に居続けることができないから、意識を飛ばして、体はそこにありながら、意識は別の所に逃避しているのだ。これをしなくなるための訓練として、ヨーガ・アーサナはあるのだと、今なら分かる。

スワミ・ヨーゲシバラナンダ大師が来日された時、連日、納豆とご飯だったのに何の不満も仰られなかった、という話が頭の中にある。師匠は「たかが食べ事に心を煩わされない」という教えのために、この例を挙げられた。健康に対する拘りも執着の一つと見るので、AとBならどちらがより良いのでそちらを好む、という心も執着。
囚われにならなければ執着も楽しい。私だってある種の執着はある(某所のコーヒー以外は飲まないとか)。

当時、パンのことばかり考えていた自分は、言わば依存症の状態で、パンを狂ったように食べることが違法ではないというだけで、自分の苦しみが軽い訳ではなかった。
当時の私は、いったいパンを通して何を求めていたのだろうか。
今は、家にあるものだけで十分に満足できる自分でありたいと思える。なんとかその点かでは地獄から這い出すことができて良かった。

今は、知識欲がある。
運動器官を例える馬でいうと「眼」なのかとも思う。目から文字として入る情報を狂おしく求めているのでは。
「もっと分かりたい、知りたい」というこの思いで、これまで何度も足を掬われてきた。がっかりするのはもういい加減にしたい。
数少ないが、より真実に近い教えに縁を頂いていると思う。もう探し物はしなくてよいし、手放してよいものもあるように思う。
ただ読んで、書いて、弾いて、点てて。それで一生の間、十分に間に合う。時間は足りないくらいだろう。


書店に行って本を買いたくなる。
Amazonの欲しいものリストにも、ズラッと本が並んでいる。
程を守って楽しみ、自分の行為で苦しみを生まないように、と願う。


人の感覚器官の内でも2つの器官の働きは、非常にパワフルであり、その働きに打ち勝つことも非常に困難です。これら2つの感覚器官の内の一つは味覚の器官です。次にカルマインドリヤと呼ばれる運動器官の内では、生殖器官が最も強力です。

№206 どう思われてもかまわない

そういえば先週末はバタバタしていたので、YouTube投稿が出来なかった。
頭を使うことが続くと、その後は疲労困憊する。

今日の夜のレッスンで、数年前から実習を続けて下さっている方が、「からだは元気なのだが、頭のなかでぐるぐる考えが回るのが止まらない」と言っておられた。その方は以前は腰痛を始めとした体調不良に悩んでおられたので、食物鞘(肉体)の調子が良くなってきてようやく、内面のことに取り組める準備が出来たのだろうか。

私自身は、さすがに常時ものを考えるようなことは無いが、普段の静かな生活が乱されると、睡眠中に夢をたくさん見ているような気がするし、その夢の内容も奇妙なものになり、朝目を覚ましたあとに、「あー、このまま何もせず、なにも見ず、まどろんでいたい…」と思うのだった。

そして暗い本が読みたくなる。
子供の頃から怖い話がたまらなく好きだった。今もそう。
アニメの「日本昔ばなし」でも怖い話が好きだった。今もYouTubeで見てしまうことがある。
そして一昨日から、創元推理文庫の「怪奇小説傑作集」などを読み返していた。

今日はたまたま、近所の書店カフェで人と会う約束があったので、そのついでに「自殺会議」という本を見つけて購入してきた。
暗いテーマではあるが、読むうちになんだか元気が出てくる本だった。

人間、死ぬ勇気があるなら、なんとかそれをひっくり返して「人になんて思われても構うもんか、この世でどうなっても大したことないわ!」という気概を持って、自分にしか出来ない独創的な生き方を貫きたいものだ。

私も自衛隊を退職して以来、のらりくらりと自分のやりたいことだけして生きてきたので、世間で真っ当とされる生き方にお戻りなさい、という声が周囲から聴こえてくることがたまにあるが、「その真っ当ってどういういこと?聖典にそんなの書いてないし」などという過激な思想でこれからも生きていくのかなあと思う。
せっかくなので、死ぬときに「ほら~、やっぱり大丈夫だったやん!」と言い切って死ねるように、私流で頑張りたいと思う。

ところで、先週末に「5分だけ時間あるか」と、筝曲の師匠から呼び出された。
台風の風の中、師匠宅に走って出向いたところ、仲間と二人で「お床の間にお座りなさい」と言われる。改まって何だろうか…と思ったら、(筝曲での)称号のお免状を授与された。

お免状を頂くには費用が掛かるのだが、お金があるだけではお免状は貰えない。
このお免状を頂くためにやり続けてきたこと、掛けてきた時間、師匠が自分に掛けてくれたお心が、この1枚の許状にギュッと凝縮されて詰まっている。
「貰って嬉しいのは、お免状」と心の底から思う。
30代の頃、死にたくてたまらない時期があったが、死ななくて本当によかった。
今後どんなに辛いことがあっても、踏みとどまって、1人でも多くヨーガをお教えして、1曲でも多く曲を覚えよう。
 

自殺会議

自殺会議

 

 

№205 ヨーガで痩せられるか

4日夜の食中毒で寝込んだ後は、外出が多く、随分と忙しかったなあ。
今週は自宅で静かに過ごせそうだ。

さて、ヨーガを身体的な側面だけで捉えている人にとって、「ヨーガで痩せられるか」というのは気になる問題のようだ。

事実、講座でもダイエットについて取り上げて、3か月かけて考えてもらった(実践については各々にお任せした)。単に痩せる方法を学ぶということでなく、肉体という自分の一側面を通じて、自分自身をよく理解して頂く事が目的だ。

私だってDVDにお世話になっていた頃には、ヨーガに対して軽い認識しかなかった。痩せたーい、とも思っていた。今考えると赤面もの。

肥満というのは複雑な疾患である。
遺伝的な要因もあるし、長期的に、複数の視点からのアプローチが無いと、減量には失敗するだろう。リバウンドの悪影響も恐ろしい。

本気で痩せたい人に、教室ではお会いしたことがない。
「痩せたい」という言葉を「楽に痩せる方法を教えてくれ」という意味で使っておいでの方が多い。学問に王道がないように、体重・健康管理も、1日も欠かさず一生続く取り組みであって、王道はない。
「痩せたい」という表現に、別の思いが込められていることも多い。
違うことを望んでいることに、ご自身が気付かれていないことも多い。

ヨーガ的ライフスタイルを送っていれば、体重を減らすことは難しくないと思う。
・運動
・調気法
・瞑想
・(体質によるが)断食、もしくは間欠断食
・健康的でシンプルな食生活
・食に関する依存がない

これらの実践を、毎日当然のように継続していけば、ストレスホルモンの分泌量も抑えられ、インスリン値も下がっていくのは間違いない。肉体も脳の働きも一新されるだろう。1年も経つころには、いったい何に悩んでいたんだろうと思うのではないか。

そもそもヨーガは、人間としてよりよく生きるために、まずは自分の感覚器官を制御していくところから始まる。体操はその入り口である。
食べることに対する執着も超越していくから、結果として体重も減るだけであって、それが目的であればそもそもヨーガではない。

肉体よりももっと力の大きな「心」というものを制御すること、そして、意識にも上らない記憶や、自我意識まで癒していきたいという願いもある。
皆にヨーガをして欲しい訳ではないけれど、一般に思われているよりも奥深いものだということを、発信していきたいものだ。

スワミ・ヨーゲシバラナンダ大師は、ご自身で死期を決められ、五穀断ちをして遷化されたときく。
私も、いつか年老いた時、そんな制御が自分の肉体に対して行えればいいなあと思う。
秋だから、梨や柿が食べたい、などと思っているのでは、まだまだ。

№204 対話

昨日2回も家を飛び出した娘は、体の中に詰まっていた思いを吐き出せたようで、今は落ち着いている。

今日は部活も休んで、朝から一緒にカフェへ行ってみた。
家よりも、そこの方が落ち着いて話ができるような気がしたからだ。

昨晩も、朝も、私も感じていることを言った。
穏やかな調子ではなく。

死ぬとか、軽々しく言って欲しくないということ、
取り組んできたことを辞めたい、学校辞めたい、死にたい、って言うなら、まず自分の持ってるものを全部捨ててみろと言って、彼女の大事にしている全国大会の記念Tシャツや鞄、竹刀袋をゴミ袋に詰めた。

そうしたら、「止めてよ!」といって彼女は泣いた。

人は皆完璧な存在でない、ということを、私はここ数か月しみじみと受け容れられるようになってきた。いいお母さん、などということではなく、大事だと信じていることについて、心の底から話ができる自分でいたい。

それでも今回の件で、自分が頑張りたいと思うのは、娘たちあってこそなんだとしみじみ思った。「もっと」の先には、娘や大事な友人、生徒さん、師匠の笑顔がある。
それがなければ、今やっていることを単に淡々とやっているだけで十分なんだ。

人は自分のためには頑張れない。
歓喜鞘で他の存在と繋がっているのを、存在の奥底では知っているからかな。

娘とは今日1日かけていろんな話をした。
聞きたくて聞けなかったことも尋ねた(全国の後で「自分はダメだ」と思ったのは何故だったのか)。

「生きていてくれるだけでいい」と言ってきたが、「笑顔でいて欲しい」という望みも付け加えたい。
生まれてきてくれて本当にありがとう。
生きていることは辛いことの連続だけど、本当はここにこうしているだけで幸せだということを、思い出していこうね。

No.203

下の娘は思春期のせいか、精神的に不安定な日々が続く。

教えの言葉の数々が心にありながらも、動揺をしながら今日という日を過ごす。
若いこともあって、「死」という言葉を軽々しく使うことには、激しい抵抗を覚える。

この経験もまた、自分にとって大切な意味を持つものだから、じっと此処にこうして、堪えぬきたい。

No.202

台風はそんなに近くないのに、何故JRが止まったり、学校が休みになったりするんかいな、と思っていたが、夕方から風雨がにわかに強まってきた。
これはかなり大きな台風なんだな。
真下にいる方たちの安全を、心から願う。

さて、本日は月一度の米子での瞑想講座だった。
私とは何ぞや、という大事なことについて、色んな見方を用いて理解を求めていく。

私たちは渦巻きである、とスワミ・ヴィヴェーカナンダ大師も書き残しておられるが、物理学でもそうらしい。

光分子とかいう、バイオ・フォトン?の渦巻きなんだって。それが思念によって方向性を決められて結集してたりする、ということで合ってるのかな。

まぁ、他分野での理解はさておき、私はヨーガ語でものを考えるようにできているので、自分はアートマンであると思っている。

アートマンは生命原理で、万処に遍在する絶対者ブラーフマンの肉体における出先機関
人間存在は、アートマンが乗る馬車のようなものであって(カタ・ウパニシャッドにある「人間馬車説」)、アートマンが御者に対して「あー、そこでちょっくら停めてや」と指示して、「どっこらしょ」と馬車から降りてしまったら、それが肉体の死である。

乗客が降りたら即座に崩壊するような物体が、私であるわけはない。
私とはアートマンである。
いくつもの馬車の主人として、乗ったり降りたり、家に帰ったりしている。
生まれることもなく、死ぬこともない。

アートマンの座は心臓のなかにある小さな空間だと言われ、そこを「歓喜鞘」という。
そもそも人は喜び溢れている存在なのに、自我意識と過去の記憶のせいで記憶喪失に陥っている。

個々の自分、肉体として有限の命をもち、いつか滅ぶ自分を「本当の自分」だと勘違いしている。
これが「無知」のそもそもの定義。

無知から抜け出して、目を覚ますためにはもうひとつ、過去の記憶が浄化されないといけないという。
浄化方法には色々あるが、時間がかかったりややこしかったりすると、疲れてしまう。
今、ここのところを更に研究中。

量子メガネみたいなものがあれば、「あー、やっぱり渦巻きだったわ!」と合点いくのだろうが、まだそんなものがないので、感覚に頼らねばならない面も多くてちょっと難儀する。

皆さん、自分はアートマンだという自覚を常に忘れずに生きてくださいね。