昨日、「怪奇小説傑作集3」を再読していたら、非常に印象深い作品に出会った。
以前読んだ時にはさほどの印象を覚えなかったようで、あまり記憶に残っていなかった。
イーディス・ウォートンの「あとになって」という作品で、自分の思いが及んでいなかった、配偶者の影の部分に出会わざるを得なかった女性の話。
この作家はピュリッツァー賞も受賞した人なのに、作品はすべて絶版になっている。
映画「エイジ・オブ・イノセンス」の原作を書いた人と言った方が分かりやすいだろうか。
この「あとになって」の読後感が最高だったので、他の作品も読みたくなったのだが、幸いなことに図書館ですぐに手に取ることができた。田舎の図書館では恩寵ともいうべき幸せ。「幽霊」という短編集だ。
「怖さ」という感覚を、どういった点に感じるかは人それぞれだと思うが、私の場合は「閉じ込められる」という状態に恐怖を覚える。
自分が閉じ込められる怖さ、というよりも、誰かが閉じ込められているのに誰も救い出せない、救い出さない、という心理的な恐怖。
以前、山の町で頻繁にレッスンをしていた頃、図書館に入りびたりだったことがあって、夏を前にしたある日、図書館員の方から「怖い本を紹介して」と声を掛けられた。
そこで私が紹介したのは、バルザックの「グランド・ブルテーシュ奇譚」で、今もこれ以上に怖い本はないだろうと思っているのだが、案に相違して「怖さとして高度過ぎる」と言われ、却下されてしまった。
共感はされなかったものの、これは「閉じ込め系恐怖」の最高傑作であると思っていたのだが、この度「祈りの公爵夫人」というウォートンの作品に出会った。
ぼかしっぷりが際立っており、読み様によっては煙に巻かれて終わりそうでもあるが、私のように「閉じ込め恐怖」に敏感なものにとっては思わず放心してしまうような名品なのであった。
「え?」と思い、前のページを改めて繰る。でもやっぱり…。あゝ…。
そういう感じです。
他には、ロアルド・ダールの「天国への道」も怖い。
初めて読んだのが原著だったので、自分の英語力が不足しているために、結末を間違って理解してしまったんではないかと思うくらいゾッとした。後に、翻訳を読んでみたが間違いなかった。
でもどの作品も、はっきりと語っていない訳だから、閉じ込められることよりも「ぼんやりとした謎」こそが怖いのかもしれない。
自分のなかにも、ぼんやりとした謎があると思う。
そこに方便をつけて生きている訳だが、本当のところはどうなのか…
日本昔ばなし「吉作落とし」は、閉じ込められてはいないが、置き去り系の恐怖。開放感があっても、閉じ込められてるのと同じじゃないか…という点で、この作品は救いがない。
ということで、なぜこういった「恐怖」に心惹かれるのだろうか。
ちなみに、こんなに心揺さぶられるのは、文章と音だけです。
映像はそんなに怖く感じないのも、不思議なもの。
「そこの小部屋にだれかいるのかね?」
「だれもいなかった場合には、わたしたちはこれまでですわね」
~グランド・ブルテーシュ奇譚より
- 作者: イーディスウォートン,Edith Wharton,薗田美和子,山田晴子
- 出版社/メーカー: 作品社
- 発売日: 2007/07
- メディア: 単行本
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