蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№207 食欲など、感覚の制御について

先日の聖典学習で、「食欲と性欲の制御をいかに上手に実行しているか」という瞑想お題が出た。

まだヨーガを始めたばかりの頃、単に体操としてのヨーガをしていた頃のこと、教室で体操をしながら、帰りにパン屋によって買うパンのことばかり考えていた。

特に、ダヌル・アーサナ(弓のポーズ)という後屈のポーズが苦しくて大嫌いだったので、その時にはパンの思考が盛んに溢れた。
というか、「パンの思考に逃げた」。
じっとその苦痛の中に居続けることができないから、意識を飛ばして、体はそこにありながら、意識は別の所に逃避しているのだ。これをしなくなるための訓練として、ヨーガ・アーサナはあるのだと、今なら分かる。

スワミ・ヨーゲシバラナンダ大師が来日された時、連日、納豆とご飯だったのに何の不満も仰られなかった、という話が頭の中にある。師匠は「たかが食べ事に心を煩わされない」という教えのために、この例を挙げられた。健康に対する拘りも執着の一つと見るので、AとBならどちらがより良いのでそちらを好む、という心も執着。
囚われにならなければ執着も楽しい。私だってある種の執着はある(某所のコーヒー以外は飲まないとか)。

当時、パンのことばかり考えていた自分は、言わば依存症の状態で、パンを狂ったように食べることが違法ではないというだけで、自分の苦しみが軽い訳ではなかった。
当時の私は、いったいパンを通して何を求めていたのだろうか。
今は、家にあるものだけで十分に満足できる自分でありたいと思える。なんとかその点かでは地獄から這い出すことができて良かった。

今は、知識欲がある。
運動器官を例える馬でいうと「眼」なのかとも思う。目から文字として入る情報を狂おしく求めているのでは。
「もっと分かりたい、知りたい」というこの思いで、これまで何度も足を掬われてきた。がっかりするのはもういい加減にしたい。
数少ないが、より真実に近い教えに縁を頂いていると思う。もう探し物はしなくてよいし、手放してよいものもあるように思う。
ただ読んで、書いて、弾いて、点てて。それで一生の間、十分に間に合う。時間は足りないくらいだろう。


書店に行って本を買いたくなる。
Amazonの欲しいものリストにも、ズラッと本が並んでいる。
程を守って楽しみ、自分の行為で苦しみを生まないように、と願う。


人の感覚器官の内でも2つの器官の働きは、非常にパワフルであり、その働きに打ち勝つことも非常に困難です。これら2つの感覚器官の内の一つは味覚の器官です。次にカルマインドリヤと呼ばれる運動器官の内では、生殖器官が最も強力です。