蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

No.201

お昼に神戸から帰宅。

昨夜、食中毒以来久々に肉を食べたが、消化には良くなかった。
バスのなかで少し気分が悪くなり、帰宅後、夜まで休む。

夜は、東京から月1の講座開講のために来鳥している友人と、鍼灸の先生と会食。
お二方ともお付き合いも親しく、本質的なお話がたできる方々なので、楽しく語り合った。

桔梗屋さんというとても美味しいお店なのだが、やはり消化力が落ちており、もりもり食べられない。お酒もあまり受け付けない。

人間にとって、仕事、人間関係、自己の内面、そして肉体の、どれもが自分なのであるから、どの部分でも調和して健やかでありたい。

会食後、真面目にお灸を据えて養生した。
いったん崩れると、万全になるにはしばらくかかるなぁ。

№200 時間に対する考えが違っていたら?

神戸出張中。
本日は御影公会堂でのレッスン。

初めてご参加の方の症状から、お悩みの核心に近づいていけるように対話を重ねていく。「これはまだ言っていなかったんですが」という打ち明け話をお聞かせ頂くと、こちらとしてもよりお役に立てるお話ができることになる。
腰痛などの身体症状はほんの入り口に過ぎない。
私たち皆が、自分の事を一番分かっていない。


今晩は気に入りの鉄板食堂で夕食。
スタッフの女子たちと一緒にアイスクリームを食べて引き上げようとしたら、ご近所に住む〇〇さんが来られた。久々にお会いした。
この方は元陸上自衛隊の空挺隊員だったという人で、とても良い体格をしておられる。
私ごときのぬるい自衛隊経験とは比べようも無いのだが、共通の話題で静かに盛り上がる。内輪話というのは面白いものである。


さて、昨日入手した本を読みながら唸っている。
「時間は存在しない」?
私たちが話題にのせる「今」は既に過ぎ去った過去。
更に、過去・現在・未来は一直線に流れるものではないという。

今が癒された時、過去まで同時に癒されたような経験は私自身も持つ。
時間に対する先入観が失われた時、今この瞬間に対して自分が持っている思いが、現象世界の在りようを決めるという教えが、にわかにリアルなアドバイスとして感じられる。
だからこそ、今、この瞬間に知足せよと、この瞬間に幸福であることを認めよと教えられているのか。

いつかのために、ヨーガをしている訳ではない。
今ここにいる自分が癒されれば、過去も未来も同時に癒されるのだとすると、今日の私の実践は、思っているのとは違う、全く違う意味を持ってくるな。

 

時間は存在しない

時間は存在しない

 

 

№199 一本の管として

今月も無事、神戸にやってくることができた。
これで今週末の音声録音は、またヘンテコリンな訛りが入ってしまうかもしれない。
居住地を転々としてきたせいか、その土地の発音にすぐ影響されてしまう。

今日は水曜日。残念ながら大好きな鉄板焼き食堂が定休日だった。
仕様が無いので、宿の正面にあるスーパーに行ってみたところ、「スジ丼」なるものを発見。ご当地メニューですね!
早速頂いてみた。牛スジの煮込みが卵とじになって、ご飯に乗っている、親子丼に似た食べ物。
…胃腸の調子が万全な時にもう一度挑戦してみたい。

さて、今朝は不思議な夢を長々と見た。
見知らぬ街を母と二人で歩き回ったり、ウオータースライダーで何度も滑り降りたりした断片だけを記憶している。
起床前に胸が締め付けられるように苦しくなったので、それを意識化するために他の細部は飛んでしまったのだった。

ストレスがあるとこういう痛みが起きることがあるが、痛みを感じながら、「最近、そんなストレスを感じたかなあ」と考えてみる。思い当たるところがない。
以前、鍼灸の先生に、「もしこういう痛みが起きた時に病院に行ったら、狭心症とか診断が付いたりするのか」と尋ねたところ「それはない」とのお答えだった。
痛みは、時報が聴こえてくるとじきに収まった。
痛みが引いた後で、「生きている」ということに対する啓示のようなもの(というと大袈裟に聞こえるが)がやってきた。これを感じるための痛みだったのかなあと、思ってみたりのだった。


スワミ・ヴィヴェーカナンダ大師の「ラージャ・ヨーガ」には、

 ”組織が次第に精妙になるにつれて、はじめのうちは少しでもおきてに外れたことをするとバランスを失うということを知るでしょう”

とある。
肉体に対する完全な制御を手に入れると、何を食べてもヘッチャラだそうだ。

ちなみにこの本は、ヨーガ療法士養成講座(前期)の副読本である。
当時はさっぱり意味が分からなかったのだが、今読むとしみじみ感動する。
若きヴィヴェーカナンダ大師の明晰さ。生の講演を聴いてみたかったなあ。

”人間一人ひとりは人類の背後によこたわる知識と力の無限の大海に通じる一本の管に他ならないのだ、と断言する。”

智慧を前にして、自分はストローみたいなものに過ぎないと思っていたが、やっぱりそうだったか。安心してストローとしての生を全うできそうだな。


ラージャ・ヨーガ

ラージャ・ヨーガ

 

 





№198 体調不良という恩寵

食中毒から3日目となり、かなり回復した。
しかしながらまだ免疫力が下がっているらしく、左側の耳下腺が腫れている。
体調が優れない時によく腫れる。左右どちらかもその時による。

9年ほど前には原因不明の腹痛で苦しみ、鍼灸治療でそれを克服したものの、今度は唾液腺が腫れるようになった。当初は対処方法が分からず、その都度病院に行っていたのだが、抗生剤を処方されるくらいで為す術がなかった。
念のためと思い、大学病院で診てもらったが何も見つからなかった。

鍼灸の先生の仰るところによると、以前の腹痛も、現在の耳下腺炎も同じ原因から発しているという。漢方の視点から見ると、私は「脾」が「虚」しやすい。
その結果、今の症状が現れているというのだ。

だが、腹痛と比較して、耳下腺の方はまだ表面的で、腫れていれば手で触れて確認できる。マッサージで膿が溜まらないようにすることも出来る。これも脾の症状が軽くなって生きている証拠だそうだ。

確かに鍼灸治療には真面目に通ったけれども、養生にも努めた。
ヨーガを行じているせいか、大したことないのに症状が重くなりやすい。たぶん感覚が鋭いせいだと思う。
そしてケロっと治る。

でもですね。
最近腹に落ちたことがあるのだ。

病はやっぱり気からだった。
「思い悩むのは止めよう」と思い決めて以来、脈にそれが現れていると言われる。
気脈は通じているのだな。

もちろん、すべての病が気からだなんていう気はない。否応なく受け容れねばならない災厄のような病もこの世にはあると思う。(ウィルバーの最初の妻、トレヤのような)

ヨーガ療法の立場では、すべての病は心身症であると言い、実際にそうだと思わされる症例を多く目する。トレヤさんのような方には、教室では出会わない。いや、私という教師は未だ出会えない、というべきか。

あんな病もあるからこそ、気から生じる病に私たちは十分に心配りをしたいし、日頃の養生を大事にしたい。養生で何とかできる病にかかってしまうのは哀しい。

レッスンの最後にリラクゼーションをわずかながら行う(わずかな時間しか行わないのには、ヨーガ療法的な理由がある)。

その短い時間に寝てしまう方は、無意識の領域が強く作用している方だ。
無意識の領域が多いと、生きていて「なぜこんなことに?」ということが増えてしまう。

ヨーガ行(特に師との対話)を通じて、心の闇を探求してきたつもりだが、それでも今も思うままにならぬことがある。繰り返し行じていくしか道はない。
アサナと呼ばれるヨーガの体操は、人を敢えて苦しい状況に置き、その最中の心や肉体の反応を観察し、躾けていこうとするもの。
どうかアサナを通じて、少しずつ自分というものへの理解を深めて欲しい。
そして眠ることなく、心と体が休まる状態をしっかりと体感して欲しい。

この度の体調不良(食中毒)は、今の私にとって誠に恩寵であった。
こうなると、ご飯が進んで悪くなってくれたのでは、などとアホらしいことまで考えてしまうのだった。

 

グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉

グレース&グリット―愛と魂の軌跡〈上〉

 

 




No.197

養生三日目。
かなりいい。
朝はいったん起き上がって、普段のルーティンのいくつかはこなせた。
その後は横になり、昨日届いた書籍を読む。
また、一昨日の聖典ライブの録画を視聴した。
夕方からは通常の予定をこなす。
稽古とレッスン。

二日半寝て暮らしたので腰が痛かったが、レッスンで楽になった。


この度入手したのは、とてもよい本だった。
例のごとく、日本語タイトルが今一つ。

yogaの取り組みの根幹は、過去の記憶の掃除にある。
それは時につらい作業かもしれないが、やる価値は多いにある。というか、それをやらねば何も変わらないのかもしれない。

幸せに理由があってはならないということ、今この瞬間に問題があると感じる病をまず癒すこと。
yogaの仕事はそれに尽きる。

他はすべておまけ。

No.196

養生二日目。

本日は娘の中学生最後の団体戦だったのたが、さすがに応援に行けなかった。先鋒として勝利し、後輩たちに無事後を譲ったようだ。

少し楽になり、ものを口にできるようになるが、消化力はひどく落ちているようだ。
胃の痛みも残っている。

今日は午後からお灸をした。
三里を温めると楽になる。

体調はいったん崩れると、万全の状態に戻るのにしばらく間がかかる。
日頃の健康が、有り難く感じられる瞬間。

No.195

昨晩、食中毒になったらしく、体調が酷く悪い。
なんとなく心当たりはあるが、普段敏感な方なのに気付かなかったことが驚きで、この体験にはいったいどんな意味があるのかな、と考えつつ休んでいた。