蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

No.202

台風はそんなに近くないのに、何故JRが止まったり、学校が休みになったりするんかいな、と思っていたが、夕方から風雨がにわかに強まってきた。
これはかなり大きな台風なんだな。
真下にいる方たちの安全を、心から願う。

さて、本日は月一度の米子での瞑想講座だった。
私とは何ぞや、という大事なことについて、色んな見方を用いて理解を求めていく。

私たちは渦巻きである、とスワミ・ヴィヴェーカナンダ大師も書き残しておられるが、物理学でもそうらしい。

光分子とかいう、バイオ・フォトン?の渦巻きなんだって。それが思念によって方向性を決められて結集してたりする、ということで合ってるのかな。

まぁ、他分野での理解はさておき、私はヨーガ語でものを考えるようにできているので、自分はアートマンであると思っている。

アートマンは生命原理で、万処に遍在する絶対者ブラーフマンの肉体における出先機関
人間存在は、アートマンが乗る馬車のようなものであって(カタ・ウパニシャッドにある「人間馬車説」)、アートマンが御者に対して「あー、そこでちょっくら停めてや」と指示して、「どっこらしょ」と馬車から降りてしまったら、それが肉体の死である。

乗客が降りたら即座に崩壊するような物体が、私であるわけはない。
私とはアートマンである。
いくつもの馬車の主人として、乗ったり降りたり、家に帰ったりしている。
生まれることもなく、死ぬこともない。

アートマンの座は心臓のなかにある小さな空間だと言われ、そこを「歓喜鞘」という。
そもそも人は喜び溢れている存在なのに、自我意識と過去の記憶のせいで記憶喪失に陥っている。

個々の自分、肉体として有限の命をもち、いつか滅ぶ自分を「本当の自分」だと勘違いしている。
これが「無知」のそもそもの定義。

無知から抜け出して、目を覚ますためにはもうひとつ、過去の記憶が浄化されないといけないという。
浄化方法には色々あるが、時間がかかったりややこしかったりすると、疲れてしまう。
今、ここのところを更に研究中。

量子メガネみたいなものがあれば、「あー、やっぱり渦巻きだったわ!」と合点いくのだろうが、まだそんなものがないので、感覚に頼らねばならない面も多くてちょっと難儀する。

皆さん、自分はアートマンだという自覚を常に忘れずに生きてくださいね。