蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№574 交歓

幸せにならなきゃだめだ 誰一人残すことなく省くことなく  加藤千恵

 

 

 

2月16日
名古屋を発って帰路に就いた。予定より20分も早くホテルを出て、余裕綽々のいい気分だったのだが、金山駅から出た電車が名古屋に向かっている気がしない。私はいったいどこに向かっているのであろうか?名古屋駅はいったいどこに行ってしまったのであろうか。 
カナヤマからナカツガワ行きにのり、ナゴヤに行こうとしたのだがチクサというところにいた。ここで「なんだかヘン」と気付いて降り立ったらそこに「ナゴヤ行」と書いた電車がやってきたので、「あ、今乗ってた電車はナゴヤに行かないわけね」と悟った。余裕を生んだはずの20分は金山~千種間の往復に費やされ、当初予定していたとおりの金山発名古屋行きに千種から乗ったというただそれだけのこと。絶対者のお仕事は緻密にして完璧であり、いつもながら頭が下がる。参りました!

 

ここ数か月毎月のように名古屋に通ってきたが、クライエントさんのお引越しが決まったので、ここに来ることはしばらくないかもしれない。アスナル金山成城石井にもお世話になったし、ホテルでは「いつもありがとね!」的扱いを受けるようになっていたのでちょっぴり寂しい。誰か新たに名古屋でクライエントさんが現れないだろうか。岐阜でもよい。先月行った岡崎市の味噌見込みが絶品だったので、岡崎でもよい。妄想リストに入れておこう。

 

 

昨日のセッションでは、実習の後、直接触れさせて頂く靈氣ではなく、リラクゼーションとトンレンの呼吸を組み合わせて行った。トンレンは仏教の瞑想で、ウィルバーの「グレース&グリット」に書かれているのでご存知の人もいると思う。
実習で呼吸(生気鞘)と肉体(食物鞘)を用いて内的なもっとエネルギーの強い部分(意思鞘、理知鞘、歓喜鞘)を調え、最後にリラクゼーションを行う。そのとき、自我は鎮まり、自己に安らぐことが容易になる。その状態では、風が出入りする「場・空間」としての自分をただ観ていることができる。

風というエネルギーが出入りすることで、空間のなかに動きが生まれ、必要なものを得て、不要なものを手放し、体外に放っていく。そして自己存在が清浄になっていく。
具体的には、要らないものを黒い煙にして鼻から出して、きらきらとした美しいプラーナ(生気)を受け取ることで煙がだんだんと薄くなっていく感じである。

こういう呼吸をクライエントさんに意識してもらいながら、そばで私がトンレンの呼吸を行う。こちら側は逆で、黒い煙を吸って、清浄なものにして出す。人が要らないと思うものを吸い込んで病気になったりしそうだとか思うかもしれないが、そんなことにはならない。実のところ、これはセンセイじゃなくてもできる。

時折、クライエントさんのいろんな話を聴いてしんどくなったりしないの?とご心配下さる方があるのだが、これが全然ならないんだよね。ほんとに。逆に燃える。自我じゃなくて、自己レベルで燃える。たぶん、私のなかにも存在する絶対者が震えながら喜んでいる。
トンレンの呼吸も同じ。推察するに、この時私の脳波はデルタ波が出ているような気がする。煙を吸う側になるとデルタ波、吐く側だとアルファ波なのではないかと感じる。Hさんのところで脳波を見て検証してみたい。

だからやっぱりここでも、教えている私の方が爆発的に気持ちよくなっているという現象が起きていて、クライエントさんに「すみません、私の方が気持ちよくなっちゃって」とお詫びしたいくらいである。ほんとに、すみません…

 

Yogaを始めて15年くらい、年々肉体は楽になるような気がする。先輩方の年齢不詳っぷりに「これはシッディ(超能力)のなせる業か?!」と驚いてきたけれども、訳はここにあったのね。アーユルヴェーダの師・バット博士が「若返りには瞑想がいちばん」と断言なさるわけも、きっと同じ。



今日の結論。
愛されるよりも、愛する方がいい。愛は能動である。さしだした愛は受け容れてもらえると信じて、恐れを捨て、勇気をもって一歩踏み出すこと。他の誰かの愛(や愛のように思えるもの)と比較をしないこと。愛と引き換えに何かを求めないこと。
バクティヨーガ・愛の三角形は若返りのクスリ。今日あなたも、愛する人の苦痛や嘆きを全身全霊で吸い込んでみて欲しい。だいじょうぶ、ちゃんと絶対者ブラフマンが助けてくれる。そのとき目を閉じて体の感覚を感じれば、脊柱に添ってエネルギーが上がっていくのがわかるかもしれない。

あなたの吐き出した黒い煙は、私がここでちゃんと吸っているからね。だいじょうぶだよ。