蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№833 満たされた器

この世のすべての問題は、根本的には自己の否定から起こると言われています。

「私なんてどうせ」っていうアレです。

 

自分には価値がないという思いはとても破壊的で、連鎖的にいろんな課題・問題を引き起こすことになります、実は。Yogaを始めとする伝統的な世界観では、人間を層構造で捉えていることは既にご存知の通りですが、肉体や精神に不調が出ていても、その原因が肉体にはないと見立てます。

 

信念やものの考え方、世界をどのように見ているかや自らの過去に対してどのような解釈を与えているか、または単純にこれまで蓄積した知識が間違っていたということなどが関係していると考えます。

 

このことは水甕やピッチャーをたとえとして語られることが多いです。五蔵説でいうところの存在の中心・歓喜鞘の障害ということになります。

 

水を満たすための器なのに、ヒビが入っていたり、場合によっては穴が空いていたりすることで、満たし、満たされ続けることができないのです。この場合どういうことになるかというと、他者からの賞賛や評価を必要以上に求めることになります。人から埋めてもらわねばならないのです。

 

外界の事象を前に、自分の価値を損なわれたような怒りを覚えることもあります。人のことが気になったり、嫌いになったりすることもあるように思います。そもそも自分が満たされていないと感じているので、それを世界に投影してしまうわけです。

 

しかしこれはあくまでもイメージの話なのであって、本来ここにヒビが入って水漏れをしているような人は、この世には存在しないのです。いえ、存在し得ないといったほうが正しい。

 

生きているということは、常に満たされた器であるということ

今ここにいて呼吸をしているということが、そのまま溢れんばかりに満たされ続けていることの証になります。

 

このことに気づけることの解放感は途轍もないです。

一度、「あれ?もしかでもして」と思えたならば、それは自らの存在の根幹に関わることですから、現象の世界でも変化は次第に明らかになるでしょう。

 

もちろん初めからひとりで「よっしゃ、満たすぞ!」と思って取り組むのは、決してできないわけではないですがかなりつらいです。なので、糊やアロンアルファ的存在である誰かと出会って伴走してもらいながら、少しずつひび割れを補修していけばよいのです(私にとっての中野先生やレイキマスターまりこをはじめとする多くの方々のような)。

結局のところ、私がいろんな名称で行っている仕事も、すべてこのためだと思います。


 

少しひび割れが治まってきて、満たされる感覚が取り戻されてふと顔を上げると、ずっといろんな人がいつもそばにいてくれて、ちゃんと案じてくれたり待ってくれていたのがきっとわかります。自分にとっての仲間も友達もチームメイトも(名称はなんでもいいのですが)、ちゃんといてくれたこともわかります。

だからだいじょうぶです。

今いろいろ文句が言いたかったら、言っときゃいいのです。なんくるないサ〜

 


この世はなにか大きな力で維持されています。それをゼロポイント・エネルギーといってもダークマターといってもいいし、私の好みは当然Brahmanなわけですが、このエネルギーは愛そのものです。

 

愛って言われるとなんかなあ!

と思う人もいるのは承知してますが、要するに満たされて「あー、なんていうか?心地よい!」という感覚(エネルギー)に人が名前を付けただけだと思います。

 

靈氣もPranaも、愛です。呼吸で実際にやりとりしているのも、酸素とかCO2とかなどではなく、ほんとうは愛です。愛のないところなんてどこにも無いので、好きにやってりゃいいのです。

 

私の好きなあのコーヒーも愛だらけです。ゲットできなかった伊勢海老も愛の甲殻類です(数日前門脇師匠から、今取りに来るならあげるよと言われたけど、私は田端にいてもらえなかった...)。可愛い猫も愛の毛玉です。子供たちも、遠くにいる愛です。いったい何回前世で一緒だったんだ?と思うO先生も愛です。

皆さんの周りも愛だらけです。探して気づいて下さい。

 

だから私は、誰に嫌われようが何しようがまったくなんともありません。きっとそれも超越した視点から見ると愛だから、それでいいんです。

安心していて下さい。だいじょうぶです。