蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№508 すぐに立ち上がれるように

われの生まれる前のひかりが雪に差す七つの冬が君にはありき  大森静佳
 
 
 
12月12日
O先生とのZoomミーティングを失礼して(先生、ごめんなさい!)、久々に根津美術館に行った。国宝、重文の展示がされているという。 イナカ者なので何も考えずフラフラと出かけて行ったら、ちゃんと予約しないとダメですよとお叱りを受けた。が、すぐに入れてもらえた。ありがたいこと。
 
尾形光琳「燕子花図」屏風。今回は、展示されているもののなかの3点に強い感覚を感じたが、間違いなくこの屏風はその一つ。もう一つは、五芒星の刻印がされている古い鏡。そして火事に遭い約三分の二が焼け残った、紺色の紙に銀泥で書かれた華厳経

エネルギーワークを学ぶようにと、規夫師匠からずっと言われていたのに意味がわからず過ごし、昨年末あたりから強くそのことを意識するようになった。そのタイミングでレイキにご縁を頂くことができ、とても有難く思っている。 エネルギーワークを行っている人は独特の雰囲気があると師匠がいつも仰るが、私もそのようになれる日がいつか来るのだろうか。
 
 
さて、昨日は都内某所で毎月行われている収録の日だった。
最近はこの収録に合わせてリアルセッションや会食なども予定されているため、なかなか忙しい。まずはO先生と二人だけでのオンライン実習のため、早めに会場へ向かう。

O先生には私ばかりがお助け頂いているようだが、私も多少は実習をご提案させて頂いているのである。こうやってお互いの仕事に対する理解を深めることで、ますます先生の知見や技術に対する尊敬の念を深めつつ、進む道は異なっても同じ場所を目指していることを理解させて頂いている。

さて、O先生は椅子反対派であることは以前も書いた。
現代人の生活はほとんどが座位。常に股関節が曲がっているため、大きな血管の血流が阻害され続ける。正しい姿勢、正しい座り方を知らないために、からだが傷害してしまっていることが多い。そのことを嘆かれる故の「椅子反対」論である。
 
からだは実に多彩な動きをすることができるにもかかわらず、日頃限定的な能力しか用いないために使えなくなり、動けなくなっていく。これは「刈込」という現象が脳内で進むためであり、これによって身体の特定部位が使えなくなってしまうことを「廃用萎縮」という。
 
ふと思ったのだが、私だって調教された学生時代を過ごし、限定的な肉体の使用をしてきた。これが大きく変わったのが前職の経験である。
一般的な身体の用い方以外に、演習場を銃を持って走る、瞬時に伏せる、這って進む(5段階)、腹ばいで狙う、撃つ(的との距離は50mと200m)、伏せた状態から立ち上がって狙いつつ走る(突撃っていうアレ)、などなどという多彩な動きをさせてもらった。

身体に関して言うと、この経験は実に重要であったと思える。 あまりにも初めてのことばかり、覚えることがいっぱいで考えがついていかず、ただただひたすら体になにかを叩きこんでいくしかないの日々が、今仕事をする上での重要な土台を作ってくれたと思う。
これもまた絶対者ブラフマンの仕事のひとつと思うと、ほんとにこのお方の仕事はグッジョブだなあと感動する。ものごとはすべて、緻密な織物のように絡み合って起こっているのだ。ああだこうだと文句を言ったり、ジャッジしたり、逃げようとするものではない。と、理性的にはいつも思っている。
 

さて、座ることによる廃用萎縮の話に戻る。
要するに、今すぐにでも活動ができるように「構え」を作って座っていられればいいのよね、という話になった。O先生は椅子がお好きでないので、座って話をするときにはお相手の前に片膝をついてお座りになるという。ホストみたいに。おっと失礼。王子様が花を差し出してくれるみたいに。

でもそれだけじゃダメ。 昨日は、ヨーガの運動で重要と考えている「5つの脊柱運動」に関する解説を行ったのだが、専門的には「伸展」と呼ばれる胸をグッと前に出す動きが重要なのである。 あなたの前に片膝ついて、胸をグッと前に出す。この前のめり感。「今すぐあなたに、何かをしてあげたくてたまらない!」という思いが伝わるような?

こんなことを職場でやっているO先生。部下はたじろぎ「お座りください!」と椅子を出してくるが、椅子不要教の教祖であるO先生は片膝ついたまま「いえいえ、だいじょうぶ」と仰られる。想像するだけでなんだか楽しい。

収録の最後には、片膝をつき胸を伸展させてみた。これは私たちのキメポーズになってしまうかも。今日もこれから名古屋でやってしまう気がする。
 

ここで、足を前後に開く動きについて、少し考えてみたい。
片脚を前に残したまま、もういっぽうの足を後ろに引く。
スールヤ・ナマスカーラ(Suryanamasukar/太陽礼拝)やチャンドラ・ナマスカーラ(Chandranamaskar/月の礼拝)を実習される方はわかるだろうが、この動きは実はとても難しい。

昨日の収録では、脊柱に対して5つの動きを欠かさず行うことが重要であることを論じたが、そこにもう少し付け加えるとすると、
・不安定な姿勢のなかでバランスをとること
・骨に刺激を与えること
・たまには息が切れるような動作を行うこと
・脚を大きく前後に広げること  
という点が、重要であるように思える。

肉体が老化していることを示す指標はいくつかあるが、歩幅が小さくなることはその一つである。行政から仕事を請け負った際などには、ヨーガ療法の効果を客観的に示すために、実習前後の歩幅のチェックをする。こういった場合の対象者は既に痛みを持っておられる方がほとんどなので、脚を開くようなポーズを指導する訳ではないが、それでも歩幅は広がっていく。要するに、お尻、ハムストリング(腿裏)、膝裏、ふくらはぎ、足首という一連の「裏」の部分がしなやかであることが、とても重要ということ。これらが弱ると、小股でちょこちょこした歩行になるわけだ。
 
この動きをしなやかに行うためには、脊柱の動きが関わってくる。
なので、やはり5つの脊柱運動は基本中の基本なのだが、洋平先生のように「難しいことにあえてトライしてみる」という学習方法も効果的だと考える。

だから今日、階段を二段飛ばしで上がってみるとか、部屋中を歌いながらスキップしてみるとか、机の上によじ登って気勢を上げてみるとか、たんに大きな歩幅で歩いてみるとか、ちょっと試して頂きたいなと思う。 実際やってみて、ご自身のお尻や腿の動きに何かしらの感覚を覚えたら、そこを日々使ってやることが、老化という病気の予防にとても大事なのだと思ってみて欲しい。

スワミ・ヨーゲシバラナンダ大師は、ご自身で遷化なさることを決める前日まで、Asanaの王と呼ばれるシルシャーサナを行じておられたと聞く。これは三点倒立のようなポーズ。逆立ちできる99歳にとって、加齢とは老化ではなかった。加齢は成熟を伴った至福であり、老化は病気である。
 
 
座ること、歩くこと、一歩踏み出すこと、というごくごく当たり前の日常の動作を通じて、私たちは老化という病気を克服できるかもしれない。 まずそれができるはずだという信念を持つところからしか、話は始まらない。

ヨーガ療法は守りのための手法であって、今すでに在るネガティブななにかを解消するために行うけれども、その先はかならず伝統的ヨーガへの道へと繋がっている。
伝統的ヨーガとは、攻めの姿勢で、自らアグレッシブに健康を掴み取っていくためものである。

年齢を言い訳にすることは、私のクラスでは絶対禁止である。
それを許せば、あなたは自分自身の強大な力を他の何かに明け渡してしまう。教師として、それを黙って許したくない。私のクライエントは、老化を拒否し、加齢を喜ぶ人たちであってほしい。

加齢が常に祝福であり、年々智慧を増すことの喜びと共に在りたい。年ごとに深く人を愛せるように、受け容れられるようになっていたい。同時にありのままの自分を、ますます愛おしく思えるようになりたい。私もいつか誰かに、丸ごと受け容れてあげられるよ、と言ってあげたい。

身近にいる、華やかな加齢を重ねられている魅力的な方々みたいに、私もなりたい。
だから、座る時にはすぐに立ち上がれるように座り、毎日チャンドラ・ナマスカーラを行じて、自分のからだを祝福したい。
この思いを周囲の人に伝えて、同じ道を歩む仲間を増やしたい。
 
冒頭に紹介した短歌は、「わたし」より年上のあなたに、わたしが決して知り得ないいくつかの季節があったことを歌っている。年上の誰かに対する、強い憧れが表現された美しい歌だと思う。
O先生なら、共通の知人を思いうかべつつ、この気持ちを共有して下さるだろう。