蓮は泥中より発す

心身一如に生きるヨーガ教師の日記

№473 働きを捧げる

さみしくてあたたかかりきこの世にて会い得しことをしあわせと思ふ  河野裕子

 

  

私たちは、誰に対する仕事をしているのだろうか。
今これを書きながら、ある方のことを思い浮かべている。

 

ヨーガの道に進ませたのが何の力だったのかわからないが、そこに間違いなく憤りがあった。私たちが通常、あたりまえに利用する医療に対する憤り。

人間の不調の根っこが肉体よりももっと深いところに在ることは、今はわかっている。でも世の中のほとんどの人は肉体や精神に生じた苦しみと、存在そのものを結び付けて考えるようなことはしないし、だからこそ病院という機関に頼る他ない。

 

でも残念ながら、その場所は人をあらゆるものとつながった深遠な存在とはみない。そして私たちは、限りあるちっぽけなひとりの人としてレッテルを貼られることになる。そのレッテルにより救われることもあるのは認める。でも、救われないことの方が多い。レッテルによって、真の治癒への道が閉ざされてしまうことも多い。

 

身体的に毎日ヨーガ(厳密に言うと心身に対する行法 ~体操、調気法、瞑想)に取り組むことと、ヨーガを学ぶことはすこし違う。

ヨーガを学ぶというのは自己存在についての理解を深めること、自分のなかに確かに在るなにかおおきな力とのつながりを回復すること。その力が確かに私の中にあることの確信の上に、目の前のひとのなかにも同じ力があることを認めて、それを尊重し続ける生き方を採用すること。なにがあっても、どんなときにも、だ。


私を真剣にこの道に進ませたのは、ある医師。書籍を通じて出会った池見酉次郎先生。九州大学に日本で初めての心療内科をつくった人。私が手にしたのは「セルフコントロールの医学」という著作。

 

心療内科というものは、池見先生が創設したものとはすこし違ってきているようだ。その当時の私は、同じ心療内科で、あるレッテルを貼られていた。薬を飲めば治ると医師は言う。職場の上司もその主張を信じている。だから薬を飲めという。飲んでも泥のように眠り、目覚めれば死にたくなるばかりだ。いったいどうしたらよかったのだろう。

 

そんなときに池見先生の言葉に触れて、自分を治せるのは自分だけとわかった。同時期にウィルバーの本も読み、これはもしかして新しい知性の胚芽が生まれている過程なのであって、病気というのはモノの見方の角度によるのかもしれないと考えることに決めた。そして既存の方法論に徹底的に(隠れて)抵抗した。そして今の私がいる。

 

「なぜこんなことが許されるのか?!」と思うことは、世の中にたくさんある。人はみな異なる世界観の上に生きているから仕様がない。へんてこりんな世界観の上に生きている人がお金や権力を持たされていることで生じている、他者の苦しみも多い。

どこに心を寄せて生きるかを自ら決めることができるのか、それとも私たちはなにひとつ自分では決めていないのか。どちらでもいいけれど、今こうしている瞬間に、自分なりのレベル感でいいから何か尊いものに対して自らを捧げたいという思いを少しでも持てることを喜びとしたい。この世で生きていて得になること、安逸に生きることを求めるだけでなくて(多少はそういうことも必要だろうが)、あなたの仕事のために私という命を使いまわしてくれと、絶対者ブラフマンに向かって叫びたい。

 

今、私の心に浮かんでいるある方も、尊いものに使いまわされている。
慈悲という親方は容赦がないというから、あなたも間違いなく疲労困憊することになる。でもどうか、世界のために耐えてください。
あなたのために、毎日祈りを捧げます。