蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№164 今、こうであることの価値

秋の雨で湿度が高く、過ごしにくい1日だった。
アーユルヴェーダでは体質によって、春夏秋冬+雨季(日本ならば梅雨か)の中で合う季節と合わない季節ががあるというが、私はどうやらこの雨季に当たる季節が苦手だ。

昨日、初めての音声を発信して、いくつかの反響があった。
動画で顔を見せる方がいいとのご意見、自宅で先生の声が聞けるのは有難いとのお声など。

話したいことは沢山あるはずなのに、目の前に誰もいない状況で話をするのは想像以上に難しい。目の前にいるクライエントさんは、今どのような状況にあるのかな、どんな課題や悩みを持っておられるのかな、というところから、そのお悩みの助けになるような形で話をさせて頂くのが常なので、今後どういう展開で話を進めていくか、とても悩む。
何方かを、リアルに想定してお話するのがいいのかもしれないが…


これまで生きてきて、自身の悩みを何とかしようとする中で、様々な知識や経験を積ませてもらったと思う。
しかし、新しい悩み苦しみには、これまでの経験は応用できないことがあると知った。
10年間、同じネタで走って来られたが、この先の10年にはまた別の智慧が必要なようなのだ。

10年前と違うのは、気分の落ち込みと自分を分けてみている「別の」私の視点があること。もう一点、世の中で「怖い」とされていることの多くに、あまり恐怖を感じないことだ。

この10年はヨーガ療法と共に走ってきた。
インテグラル理論を理解するために、何か専門を持つことが大事だと言われ、「ではヨーガ療法にしよう」と心に決めた。
ヨーガ療法だけでなく、インテグラル理論を少しずつ学んで来たことも、芸事に真剣に取り組んできたことも、ヨーガ・セラピストとしての能力を育ててくれたと思う。

それなのに今、ヨーガというものが私の中で揺らいでいる。
私のそもそもの目的が、ヨーガ療法ではなかったからなのだろうか。
優れた道具として認めてきたヨーガ療法を、専門として落とし込む過程で多くを与えられてきたが、「自らの新しい知性の胚芽を育みたい」という本来の目的の前に、どんな立ち位置で、どんな表現でこの専門性を今後育んでいったらいいのか、迷いと悩みが生じ、気分が鬱々とする。

30年でやっと1年生と言われるヨーガの世界で、誰もが通る曲がり角に私も立っているのかもしれない。後々、今のことを思い出して「豊かだった」と思うのだろうか。

「今こうでなければいいのに」
そう思うことこそが病だと、ヨーガでは言う。
鬱々しても良い。ただ、今のこの状態の価値は、今の自分には理解することができないということは、忘れずにいたい。