蓮は泥中より発す

अद्वैत :非二元に還るプロセスの記録

№474 からだがあるから

もし分離した自己感覚にたいして死のう(あるいは超えよう)と思うのなら、自己中心的、利己的な行為に対して死ぬ必要があります。自分という思いや、称賛されることを考えずに、他者に奉仕しなければなりません。ただ愛し、奉仕する。「愛に傷つくまで愛しなさい」ということです。    「グレース&グリット」 K・ウィルバー

 

 

 

故人の本棚にウィルバーの本があった。失念してしまったが、私がいつか勧めたのだろうか。この本について一緒に語り合うことがなかった失意が、物理的な衝撃となって私を打ちのめしたように感じられ、書斎の床に突っ伏して泣いた。初めてこうして泣いた。

 

私はしあわせな仕事をしている。一般的な理解とは異なるのかもしれないが、ヨーガ教師であるということはその人の真実在を覆う「私というものに対する考え」や、「過去の記憶」に共に向き合おうとするものだから、黙って寄り添うことが許されている。体操だけ教えて、その人のなかの心の働きを知らずに仕事するなんて、私にはできない気がする。

 

生きるということは、寂しいことだと思う。
人はひとりで生まれて、ひとりで死んでいくからと思い定めてきたけれども、物理的な距離や時間を超えて人を案じ、思うことは許されている。誰かのことを思うというのは、そもそも寂しいことのような気がしてならない。きっとそばにいられれば、そんなことは考えることもないだろうから。人に触れたときわかるあたたかさは、たくさんの哀しみを癒してくれる。

 

同時に、縁というものの不思議さを思う。先日「不審花開く今日の春」という禅語について書いたが、花が開くさま、季節がうつりかわること以上に、人と人との邂逅は不思議で不可解である。出会いの様子を言葉で説明すれば、なるほどそれはすごいね、という言葉になるしかないのだが、なぜそもそもそこで出会い得たのかということは説明されない。

 

ひとりの人が喪われたとき、その縁の不思議さが際立つその様を、私はここで見せられている。ほんとうに人に触れるとは、どういうことなのか考えさせられるし、それには人間の意志など関わっていないような気がするのだ(だから、あの人は冷たいね、などという批判も意味をなさない)。様々な態度や反応もすべて、ただそうすることが、そのとき何かによって許されたということでしかないのではないか。

 

生きることが寂しいと思うのは、私たちが互いに切り離されていると思っているからで、この寂しさを克服するには、悟りを開くしかないということになるのだろう。
私だって頭ではわかっている。理性的にはその考え方を採用しているからこそ、あたかもその概念の上にしっかりと立って生きているかのように、生徒さんに語る。なにも怖くない、あなたはひとりではない、大丈夫と。

 

私たちに与えられている肉体を、多くのひとはモノのように扱う。自分の言うことをきかせようと色んなことを肉体に強いて、思うどおりにならないと責めたりする。
でも、肉体があるからこそ、傍にいて触れることができる。同時に、肉体があるからこそ傍にいられないことが避けがたい哀しみとなって迫ってくる。肉体があるからこそ声が聴ける。そして声が聴けなくて、苦しくなる。

 

寂しいと思うことと、誰かに触れてしあわせを感じることは、表裏の関係にあるのかもしれない。だからみな、体をもっと大事にしなければならないし、身体をもって人に触れようとすることを諦めずに、大事にしなければならないと思う。

 

でも寂しいね。
秋は寂しいものだそうだ。肺も、次第に冷たくなる空気を受け容れることを悲しんでいるかのように。